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●日本三大稲荷といえば、一般的には京都市の伏見稲荷に愛知県豊川市の豊川稲荷、そして佐賀県鹿島市の祐徳稲荷が上げられる。
鹿島は、人口約3万3千人の小さな市だ。祐徳稲荷神社の門前町として県内外によく知られているが、参拝者の数がおよそ年間300万人というから驚く。市域は有明海に面しており、地域おこしのイベント「ガタリンピック」は、参加者が泥まみれになる映像などで、全国版のニュースでもお馴染みとなっている。
その鹿島市で近年、地域おこしのもう一つの核として注目されているのが、市内に残る「肥前浜宿」の歴史的な町並みだ。
中でも、八宿から中町に抜ける通称「酒蔵通り」は、その名の通り古い酒蔵が軒を連ねる魅力的な景観の小道で、かつての賑わいを彷彿とさせる雰囲気がいまも濃厚に漂っている。ここはそのむかし、長崎街道の脇街道だった多良往還(多良海道)の宿場町であり、また有明海に臨む港町としても栄えたところ。「浜」という地名の奥からは、そんな種々雑多な人間たちの行き交う声が、聞こえて来るようでもある。 |
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| 祐徳稲荷は鹿島市を代表する神社として、多くの参拝客を集めている。 |
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| 旧多良往還の酒蔵通りは、人影のない静かな小道。狭いアスファルトの舗道を、春の日差しがのんびりと照らしていた。左の修復された町屋が「継場」。 |
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継場の中はよく手入れされており、現在は公開施設だ。
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二階は天井の低い屋根裏部屋。黒光りする柱や梁が時代を物語る。
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●JR長崎本線・肥前浜駅前から直進し、国道207号線を越えたところに立つ祐徳稲荷の巨大な赤鳥居をくぐってしばらく行くと、前方を横切る道幅の狭い通りに突き当たる。そこが旧多良往還の酒蔵通り。改札を出てから10分足らずで、歩くのにはちょうど良い距離だろう。
通りを左に折れてすぐの所に、内部を公開している漆喰塗のしゃれた町屋があったので入る。
「継場(つぎば)」と呼ばれる建物で、江戸期には荷物の集配や人馬の休憩などの業務が、ここで行われたのだという。いかにも宿場らしい施設だが、いまなら貨物集配センターといったところか。現在では内部公開のほか、案内用パンフレットや土産物なども店頭に置かれている。
中の人に尋ねると、約250年ほど前の建物だとの答え。梁などはすべて手斧(ちょうな)で削ってあるといい、言われてみれば頭上を横切る四角い木材は、どれもが古色蒼然と黒光りしている。
「二階へもどうぞ」と勧められ、靴を脱ぎ急な階段を昇る。
頭をぶつけないよう腰を屈めながら、ガランとして天井の低い部屋を覗いてみると、納戸のような暗い部屋の床に、明かり取りの窓から初春の陽が射し込んでいた。二階の天井が低いのは江戸期の町屋の特徴だが、この屋根裏部屋にはいずこも同じように、独特の雰囲気が漂っている。つまり、何とはないもの悲しさというか…。
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●「そこに、『魚市』て書いてあっでしょう?」
外に出て少し歩いたところで、そう声を掛けられた。振り返ると60歳くらいの親父さんが立っていて、隣家の二階辺りをしきりに指さしている。見上げると、しもた屋風の建物の白い漆喰壁には、確かに「魚市」の文字が──。
「ははあ、ここはむかしの魚屋さんですか」
「いんにゃ、そうじゃなか。ここでむかし、鯨の捕れたと」
「鯨ですか?」
「はい、有明海で鯨の捕れたちゅう証拠です」
そういって親父さんは、筆で書かれた一枚の古い書き付けのコピーを差し出した。よく分からないが、ずいぶん親切な人だ。
「こっちにも、あっですよ」
慌てて今度は向かいの家の屋根を見ると、通りに突き出した隅鬼瓦にも同じく「魚市」の文字。
「ここでむかし鯨が捕れたという記念に、彫ってあるんですか?」
「はい、そうです。この二軒だけ残っとります」
立ち話では詳しいところまで訊けなかったが、後でその漢字・カタカナ混じりの書き付けと格闘しながら、なんとか文意を読み解いてみると、およそ次のようなことが記されていた。
《明治四十五年三月十日午前、浜の沖に於いて七尋(=約12.7m)の鯨を生け捕る。捕獲したのは南舟津の人である。その夕刻に入札に付し、田○市蔵という者が二百二十七円で落札した。同夜解剖に着手し、十二時頃まで運方○○○。四斗樽で四十余りあった。八本木村で鯨を捕獲したのは未曾有のことというので、見物人は引きも切らず、時ならぬ賑わいを呈した。若い鯨だったせいか肉は美味くはなかったが、珍しいためわれもわれもと買って行く者が甚だ多かった。二歳くらいの鯨だったという》
ふうん、なるほど…。有明海で鯨とはまた珍しいが、それにしてもこれは建物の一部に記録されるほど、村の歴史的大事件だったようだ。
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白漆喰塗の壁には、「魚市」という文字がくっきりと刻まれている。
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| 向かいの家の隅鬼瓦にも、同じ文字を発見。 |
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| 軒を連ねる酒蔵は、どれも漆喰が剥落し痛みが激しい。町の最盛期にはきっと、壁の白さが目映い通りだったに違いないが…。 |
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●多良往還は、多良海道とも呼ばれたもう一つの長崎街道だ。佐賀から北方・嬉野を通り大村を経由する本道とは別に、小田宿から南に分岐して鹿島城下を通り、そこから多良・諫早にかけて有明海を左に見ながら下る、まさに海沿いの道だった。
浜は、この多良往還の宿場の一つ。
室町時代にはすでに浜川河口の町として形を成していたが、藩政期に入り長崎への街道が整備されると、宿場町さらには港町として繁栄し、家の多さから「浜千軒」と呼ばれるほどの殷賑を極めたという。
そんな歴史の町に酒蔵が多いわけは、恵まれた水と米に町人の経済力が加わったためだろう。酒造業が盛んになったという元禄年間(1688〜1704)から昭和初期まで、最盛期には十数軒の蔵元がここに軒を連ねたというからすごい。
背景には、長崎という一大消費都市の存在や、港としての水運の利便性など、立地条件の好さもあったのだろうが、その頃の町の勢いをまざまざと感じさせる話ではないか。
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| 煉瓦造りの煙突、崩れかけた漆喰壁、そして古びた格子窓…。どことなく失われた時代への郷愁を感じさせる、不思議な空間だ。 |
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●それにしても、静かなものだ──。
狭いこの舗道を時折、肩をすぼめるようにして走り抜ける車の音以外は、物音も人の話し声もまるで聞こえては来ない。かつて喧騒にあふれたはずの往来の活気は、いったいどこへ行ってしまったのだろう…。
現在の酒蔵通りには、往時の賑わいはない。戦後、酒造業は衰退し、町は急速に勢いを失ったのだという。いまもこの通りで営業を続ける蔵元は、すでに五軒に減っている。
春の午後のゆったりとした日差しの中、人影のない通りを歩けば、そうして活動を停止した酒造場や醤油醸造場などの、抜け殻のような土蔵があちこちにいやでも目に付く。
贅を尽くして塗り上げたはずの白漆喰の壁も、選び抜かれた屋根の瓦も、いまは虚しく朽ち果てようとしている。かつての繁栄が華やかだった分だけ、失ったものも大きいということだろうか。時代の遺物と言ってしまえばそれまでだが、うち捨てられた彼らの姿はそれぞれにもの悲しく、かつ美しい。
このまま風化させてしまうにはあまりに惜しい風景が、ここにはたっぷりと凝縮されているようだ。
「こんにちはーっ」
「ああ、こんにちは」
見知らぬ訪問者に元気良く挨拶してくれる、下校途中の小学生の声に、少し救われた思いがした。
[文と写真:城島敏明]
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いまは閉鎖された魚市場。威勢のいい声が飛び交っていたのは、昭和の半ば頃までだという。
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道端の古い石の祠。中には豊漁をもたらす神、恵比寿の像が置かれていた。
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