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●濁った空が白く輝いている。黄砂の季節なのだ。五月の青空は期待出来そうにないが、そのぶん日差しは柔らかい。
久しぶりに長崎街道でも歩こうかと思い立ち、佐賀からJR長崎本線に乗り、肥前山口で佐世保線に乗り換える。降りたのはすぐ次の大町駅。今日は春の日差しを楽しみながら、この町をブラブラ探索してみようという寸法だ。
とはいえ、大町と聞いてすぐには思い浮かぶものがない。かすかに記憶があるのは小学校三年生のとき、クラスに転校して来た女の子が、確か大町から来た子だったこと。遥か遠いむかし、先生がそう紹介したときの「大町」という地名と、おぼろげな彼女の名前だけが、いまも何となく記憶の底に眠っている。この空のような、霞の向こうの思い出だ。
改札を出て目の前の国道34号線を渡り、振り返ると大町の駅舎は意外にも煉瓦をあしらった小奇麗な造りだ。よく見れば駅舎だけではなくそこに並ぶ商店などの施設も、わりとお洒落で充実した感じになっている。この一帯はどうやら鉄道と国道という二つの動脈に挟まれた、町の流通の重要拠点らしい。
車の行き交う国道を少し西に歩き、細い路地を右に折れる。すぐ目の前に、さあここを歩いてくれと言わんばかりの、緩やかにうねった無人の舗道が待っていた。長崎街道だ。道幅といい曲がり具合といい、いつもながら旧街道の持つこの人間臭さに出会うと、気が休まるなあ。
通りに面したしもた屋風酒屋の自販機で、冷えたお茶のボトルを買うと一口ゴクリ。さあ、ここから東に向かって出発だ。
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小ぎれいな大町駅舎。公衆トイレに見えなくもないが…。
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この道幅や曲がり具合が何ともいえない長崎街道。
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いちばん右が「福母地蔵板碑」。うっすらと地蔵菩薩像が彫られており、今も人々の信仰の対象だ。
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八幡宮の祠と並んで立つ「行宮之遺跡」石碑(右端)。
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「慈雲山西福寺」の石の門。それにしても急な登り坂だ。
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西福寺の山門は鐘楼門になっており、なかなか風情がある。
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●新緑の連なる丘陵地帯を左に、平坦な田園地帯を右に見ながら歩くうち、左手の盛り上がった小高い丘の麓あたりに、数基の石塔群を見付けた。近寄ってみると、右端のひときわ大きな板碑には、なにやら仏像らしいものが彫ってある。
ボロボロになった説明板には「福母地蔵板碑」とあり、応安6年(1373)創建の、佐賀県下では最古の板碑だというから驚いた。時代は南北朝動乱のただ中で、この地蔵はそうした戦乱の犠牲者を弔う為に彫られたらしい。下にロウソク立てや花立てなどが置いてあり、今でも人々に信仰されていることが分かるが、これはずいぶんと息の長いお地蔵様なのだな。
板碑のすぐ右脇にある石段を上ると、そこは木漏れ日の光る小さな平地。奥に八幡宮の小さな祠と並んで、「景行天皇・神功皇后行宮之遺跡」の石碑がポツンと立っていた。どうやらその昔、景行天皇や神功皇后の九州巡行の際、行宮の置かれた場所だということらしい。想像すら及ばぬ神話時代の話だが、おそらくそれ以来、ここは二千年近く続くこの地区の聖地なのだろう。いきなり深いものを見せられた格好だ。
さらに街道を進むうち、左側の坂道の入口に立つ、「慈雲山西福寺」と彫られた石の門を発見。かなりの急勾配だが立派な寺らしいので、山門をめざし道を登り始める。汗まみれでゴールに着いたときには、膝がカクカク鳴ったなあ。
山門をくぐり境内に入ると、正面に「西福禅寺」の扁額が掛かった本堂があった。目を引いたのは、その左側の一角にデンと建てられた巨大な石碑。どうやらこれは、杵島炭鉱の殉職者慰霊碑らしい。
そう、ここ大町はかつて杵島炭鉱の中心地として、石炭産業で栄えた所なのだ。小さな町が最盛期の昭和16年には、人口24,000人に膨れ上がったというからスゴい。
ちょうど境内を清掃中の寺の奥さんらしい女性に挨拶をし、ついでに「炭鉱はどの辺りにあったんですか?」と尋ねてみた。奥さんは少し困ったように笑い、私は他所から嫁いで来た者なのでという返事。考えてみれば無理もない。杵島炭鉱の閉山は昭和44年(1969)、すでに40年以上の歳月が流れている。かつての炭鉱町の隆盛を知る人も、今はずいぶんと少なくなっているのだろう。
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金文字の彫られた立派な「杵島炭鉱殉職者慰霊碑」。この町の歴史を作った無名の人々に捧げる碑なのだろう。
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●西福寺を出て街道に戻り少し行くと、右手に大きな大黒・恵比寿像などと並ぶ石塔群が目に入った。この一角の呼び名はヤスマキ。変な地名だが、起こりは「夜酒幕」から来たという。
そのむかし黒髪山の妖怪退治にやって来た鎮西八郎為朝に、地元の民が酒を献上したところ、大いに喜んだ為朝がこの地に幕を張り夜宴を催した──そんな伝説があるらしい。真偽はともかく、ここが何かの遺跡であることは間違いないようだ。じゃあ、いったい何があったのか…?
ちょっと気になるが、それにしてもこの街道沿いには、けっこう為朝伝説が多いのだ。
やがて街道は福母八幡宮の前へと至る。ここまで来れば、道も保水ブロックできれいに舗装され、先はちょっとした商店街じゃないの。安心したところで石の鳥居をくぐり、神社にお参りをして行くことにした。
楠の新緑に包まれた長い石段を登る。ひやりとした木陰が心地好い。石段の上には広い境内が待っており、奥に灰色の甍を陽に輝かせた社殿があった。ここはなかなかの大社のようだ。賽銭箱に小銭を入れて鈴を鳴らし、商売繁盛を祈ったところで、拝殿内に掲げられた一枚の大きな奉納絵馬に気がついた。そして驚いた。おお、これは──!
背景の緑の山々、中腹に立つこの神社らしい社殿、そしてその鳥居のすぐ目の前を掠めるようにして走る蒸気機関車。社殿のすぐ右の眼下には黒煙を吐く煙突群やボタ山があり、活況を呈する炭鉱町の姿があった…。
そう、そこには往時の杵島炭鉱の様子が、俯瞰図で色鮮やかに描かれていたのだ。
額に書かれた日付は昭和35年11月吉日。閉山の約10年前ということになる。おそらくそれは、すでに最盛期を過ぎたこの炭鉱町の、最後の輝きを写したものなのだろう。絵の左下には、多くの奉納者の名前らしい文字も見える。
しばらく見つめているうち、この絵馬を作った人たちの心情が何となく分かるようで、ちょっと胸が熱くなった。これは、まさしく彼らの“形見”なのだろう。
絵馬よ、これからもどうか語り部として、あの時代の輝くような町の隆盛を、いつまでも人々に伝えてくれ。頼んだぞ──。そんな声が、どこかで聞こえたような気がしたなあ、うん。
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道の脇に立つ大黒と恵比寿の石像。この一角をヤスマキという。
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楠の新緑に包まれる福母八幡宮。この辺りから街道は、保水ブロックできれいに舗装されている。
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福母八幡宮の社殿で商売繁盛を祈願したが、さて…。
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| 拝殿内に掲げられた奉納絵馬には、往時の杵島炭鉱の様子が色鮮やかに描かれていた。 |
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「長崎街道やすらぎパーク」は公衆トイレもある小ぎれいな広場。
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道の右手にふいに現れた巨大な煉瓦の壁。その量感に圧倒される。
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長崎街道は、ふたたび寂しげな商店街の中へと進むのだった。
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●日差しが薄れ、雲が全体に多くなり始めた。それでも空は明るく、暑からず寒からずと気温はちょうどいい。
保水ブロックが敷き詰められ、スマートに変身した街道は一路、恵比須商店街の中を東に向かって直進する。同じ道の上をかつては、草蛙履きの武士や商人が行き来したなど、まるで嘘のようだ。ただしこの商店街、人影がなく両側にシャッターの閉まった店が多いのが気になるが…。
「長崎街道やすらぎパーク」のサインのある小ぎれいな広場を通り過ぎると、道はゆっくり右にカーブし始め、いよいよかつての福母村から大町村へと入って行く。両村が合併し大町村となったのが明治22年、大町町になったのは昭和11年のことだ。
と、そのカーブの頂点あたりの右手に突然、巨大な煉瓦の壁が出現したのには度肝を抜かれた。何というかその量感がハンパじゃない。“難攻不落”を形にしたような偉容なのだ。
しかし、この煉瓦の壁には見覚えがあった。そう、いつか北方を歩いたときにも見掛けたが、これはかつての炭鉱電車用の橋脚のはず。つまり産業遺産というやつだ。
近代から現代にかけ杵島炭鉱が石炭産業で栄えていた時代、この上を黒いダイヤを満載した炭車が走り、街道にはトラックが疾走していた、そんな夢のような立体交差の跡がここなのだろう。炭鉱夫たちの黒い顔も、辺りには満ちていたはずだ。いまは静かな田舎の道に、そんな過去があったとは到底思えないのだが──。
右に折れた道はふたたび直線となり、やはり寂しげな商店街の中へと進んで行く。
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●寺口という地区を過ぎた辺りから、街道のすぐ右側に国道34号が見えるようになり、以後両者は付かず離れずピタリ寄り添うように並走して行く。
家々の隙間からときたま垣間見える国道には、猛スピードの車がひっきりなしに行き交っている。それに比べ、こちら旧街道の方はいたってのんびり、春風の野を行くようだ。道端をかざる花々の、何と色鮮やかで美しいことか。
わずか十数メートルの距離なのに、二つの道の上にはまるで違う時代の時間が流れている。どちらの時間を選ぶかは自分しだい。でも、そこが面白いんだな。
大町小学校前の交差点に差し掛かると、左に伸びた立派な参道らしい通りが目に入った。石灯籠があり、「郷社八幡神社」と刻まれた石柱があり、遥か遠くには石の鳥居が小さく見えている。どうやらこの先にあるのが大町八幡神社らしい。
これは神亀元年(724)に、宇佐八幡宮から勧請したという古社で、そもそも大町が同八幡の荘園だった由縁によるものらしい。かなり大きな神社らしく、かつてこの門前は村の中心として賑わったのだという。福母八幡に寄って、大町八幡に寄らないのは片手落ちだが、と言ってさすがに今日はちょっと脚の方がナア…。
で結局、お参りはまたの機会にゆずり、泣く泣く先を急ぐことにした。残念!
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紅いポピーの向こうはすぐ、街道と平行して走る国道34号。
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雰囲気のある大町八幡の参道。寄って行きたかったのだが…。
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街道に面して立つ「土井家住宅」。旅籠のようだが、元は造り酒屋として建てられたという。時代劇にも使えそうな味がある。
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●さて、歩いて歩いて一軒の堂々たる建物の前にやって来た。昭和49年の国指定重要文化財「土井家住宅」だ。
街道に面した町屋風の造りは一見すると旅籠のようだが、もともとは19世紀前半に建てられた造り酒屋だという。「西遊雑記」を著した地理学者・古川古松軒は天明3年(1783)、九州を旅した折りこの家に宿泊したらしいが、当時は旅人を泊めたりもしたのだろうか。土井家のものになったのは明治のことで、それ以降は農家として使用されたようだ。
誰もいないのでおそるおそる入口の障子戸を開け、中に入ってみる(いいんだよね?)。
薄暗い土間にはヒヤリとした空気が沈み、古い木造家屋特有の匂いがかすかに漂っていた。土間の片隅には古い農具などが並んでおり、いかにも農家風といった佇まい。だが右手の座敷の方は、商家の帳場を思わせる整然とした造りになっていて、この家の長い歴史を感じさせる。座敷には二階への階段もあり、全体にかなり広い住居という印象だ。
無人のこうした家に一人でいるのもナンなので、すぐに表に出てきたが、それにしてもここの管理の方は大丈夫なのだろうか? 何といっても木造家屋の上、窓も入口も燃えやすい障子戸だ。旧街道の面影をいまに伝える貴重な建物だけに、大事に守って欲しいものだと強く思った。
土井家からさらに東に進むと、緑の量がグンと増え始めた街道の左脇に、一本の巨木とともに立派な案内板が立っていた。ついに到着、今日のゴール「横辺田代官所跡」だ。
説明文によれば、ここにはかつて佐賀藩の七直轄地の一つとして、藩主・鍋島治茂が設けた横辺田代官所があったという。明治期に廃止されるまで続いたらしいが、むろん見渡せど今は影も形もない。
そんな案内板を読んでいると、すぐ隣家に飼われている犬が、こちらに向かった激しく吠え始めた。この無礼者め。当時の代官所の役人だって、旅人にこうは吠えなかったはずだぞ──!
とはいえ、怒っても仕方がない。抜く刀も差してないので、ここらですごすご退散することにする。かくして穏やかな日差しの中でスタートした“大町うらうら探索行”は、忙しなく犬に追い立てられながらの終幕となった。
[文と写真:城島敏明]
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手の込んだ作りの「持送り」が、やはり商家風なのだ。
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入って右側の座敷は、かつての帳場を思わせる。
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土井家をさらに東に進むと、周辺には緑の量がグンと多くなる。
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| いよいよ終着点に到着。佐賀藩の七直轄地の一つとして置かれた「横辺田代官所」の跡地だが、見回せどまわりにはそれらしき影も形もなかった。 |
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