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●佐賀市は、外様大名の中でも8番目の石高を誇った、鍋島藩35万7千石の城下町。
市街地の臍はむろん佐賀城だが、明治7年の佐賀の乱で建物の大半を焼失し、以後、跡地は県庁や放送局、美術館などが建ち並ぶ、行政・文化の中心地となってきた。近年ようやく、本丸跡に「佐賀城本丸歴史館」という天保期の本丸御殿を復元した巨大な木造建物が建ち、城はかつての威風を取り戻しつつある。
その城下町を東西に横切るのが長崎街道だ。
不思議なことに、佐賀城に近付くにつれ道は右折左折が多くなり、巧妙に北にルートを移している。つまりそこだけ、城を迂回しているというわけ。
“二重鎖国”で知られる佐賀藩だが、この辺りの用心深さはさすがに周到で、かつてここを歩いて通った他国の旅人たちも、思えばずいぶんと回り道をさせられたものだ。その中には、江戸参府をする長崎のオランダ商館員や、あの吉田松陰、坂本龍馬なども含まれていたはずだが…。
そんな旅人気分を味わうため、新緑の目映い気持ちの良い一日を選び、西から東へ佐賀城下の長崎街道を歩いてみることにした。片手にデジカメ、片手にペットボトル。で、気分は一応、シーボルトにしとこうかな──。 |
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| 街道沿いにある八戸地蔵が、旅人に優しく微笑む。 |
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| 長崎街道が佐賀城下に入る西の入口あたりには、いまも往時の雰囲気を漂わせた古い家並みが残っている。 |
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街道から少し北にそれたところにある龍雲寺。
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「葉隠」で知られる山本常朝の墓は、静かに苔むしていた。
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●武士道というは死ぬ事と見付けたり──。
その言葉の苛烈さに恐れおののき、真意を知りたくて、バッグの中に常に「葉隠」をしのばせていたのは、二十歳くらいのときだった。それだけで何となく、弱い自分が少しだけ強くなったような気がしたものだ。お陰で、映画「ゴースト・ドッグ」の主人公ほどではないにしろ、あの頃つまみ食いで読んだこの本には、結構いろんな影響を受けたんじゃないのかな。
同書の口述者、山本常朝の名前はそのときから脳裏に深く刻まれていたが、まさかここでこうして墓前に立つ日が来るとは…。
慶聚山龍雲寺は、長崎街道から脇道を少し北にそれた住宅街の中に、ひっそりと建つ寺だった。思えば城からはずいぶんと遠い。現代でもこの静かさだから、藩政時代にはえらく人里離れた場所にあったはずだ。
その龍雲寺の墓所の中にある常朝の墓は、意外なほどの小ささ。苔むした墓石には、「旭山常朝菴主」という字がかすかに読める。家族の墓に包まれるようにして佇むその姿は、どこか穏やかに微笑む好々爺をさえ思わせる。いやあ、あの頃はお世話になりました、常朝さん。
もっとも、気が付けば自分もときどき、こんな言葉を呟く年になったんだよなあ。「近頃の若い奴らは、まったく──」。 |
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| 八戸町から長瀬町辺りの「のこぎり型家並」は、鋸の刃のように街道沿いの家々がギザギザに並ぶもの。城下に侵入してくる外敵を防ぐための工夫だというが、なるほどかくれんぼには向いている。 |
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| 街道の要所には、いまもいくつかの古い道標が残っている。「ながさき道」「こくら道」と指さす方向に進めば間違いはない。 |
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●長瀬町を左に折れた街道は、やがて小学校の門の前を通過する。市立日新小学校だ。ふらりと門の中に入ると、休日なのに校庭では子供たちがサッカーで汗を流していた。
ここはかつて築地と呼ばれ、佐賀藩主・鍋島直正の命により嘉永3年(1850)、大砲を造るための洋式反射炉が築造された場所。つまり、わが国最初の鉄製大砲はここで鋳造されたのだ。校庭の片隅には現在、復元されたレンガ製の反射炉(サイズは小型化)や、ここで造られた24ポンドカノン砲の模型が、誇らしげに展示されている。
ついでにいえば佐賀藩は、嘉永6年(1853)には多布施に新たな反射炉を建造し、幕府の注文に応じて江戸湾防備のため、安政6年(1859)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門、150ポンド砲3門を献納している。さらにその後、当時としては世界最高水準の兵器、アームストロング砲をも製造し、戊辰戦争の官軍の勝利に大きく貢献している。すごいじゃないか、佐賀藩! 考えてみれば、薩長土の若い革命家たちが頭の固い藩主を説得するのに苦労していた幕末期、佐賀だけは藩主・直正のトップダウンのもと、一丸となって取り組み、アジアナンバーワンの科学先進国となっていたわけだ。しかも自力で。これを驚異といわずして何といおうか。
まさにあの時代は、佐賀が光り輝いていた時代だったんだなあ…。
小学校の校門を出ると、ふたたび人気のない初夏の通りが待っていた。
平和的といえば、あまりに平和的──。この、死んだように静かで活気のない現代の佐賀の街を、あの世から直正公はどう見ているのだろうか。たぶん長い顔をさすりながら、こんな独り言をモソモソ漏らしているんじゃないのかな。
「やっぱり佐賀は、わしのような強力なリーダーがおらんと、前に進まんなあ…」。 |
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日新小学校の校庭の片隅には、反射炉とカノン砲の復元模型が置かれている。
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ほんの短い間だけ、天祐寺川が街道沿いを流れる。ホッとするなあ。
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| 伊勢神社の「肥前鳥居」。この辺りから道は、迷路のように左右に折れ曲がる。 |
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| 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分霊を祀る龍造寺八幡宮。街道はまるで城に近付くのを避けるように、この神社の北側を迂回して通る。 |
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龍造寺八幡宮の境内には、楠神社と義祭同盟の碑が建っていた。
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♪青葉繁れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ…。楠木正成・正行父子の別れの場面を再現した像。
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●市街の中心部に入るにつれて、南に位置する佐賀城を迂回するように、徐々に北寄りにコースを変えて行く長崎街道──。その道が最も北を通るところに、龍造寺八幡宮がある。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を祀るという古社だが、境内には本殿の左隅にもう一つ別の小さな神社が鎮座している。その名は楠神社。南朝の忠臣、楠木正成・正行父子を祀るもので、傍らには楠木氏の家紋、菊水をかたどった碑もある。そして、その右隣にドーンとそびえる巨大な石碑には、「義祭同盟之碑」の鮮やかな金文字が…。
義祭同盟──そうか、ここだったのか! 幕末の思想家・枝吉神陽が、楠公親子を祀るため結成したこの組織は、実は佐賀の尊王倒幕運動の幕開けを告げるものでもあった。参加者には副島種臣、大木喬任、江藤新平、島義勇、大隈重信など、後に明治新政府に佐賀が送り込んだ、錚々たる秀才たちが名を連ねている。
惜しいことに神陽は文久2年(1862)、コレラにより40歳で病死。佐賀の尊王倒幕運動は尻すぼみに終わった。
もっとも、枝吉神陽をよく“佐賀の吉田松陰”に例える声もあるが、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった松下村塾の塾生たちと顔ぶれを比べてみても、そこで行われた議論の質は、はるかに佐賀の方が高かったんじゃなかろうか。
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| 柳町を東に向かう長崎街道。かつて九州五大銀行の一つだったという、旧古賀銀行の大正モダン風建物は、この通りのランドマークともいえよう。 |
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| 白壁の町屋風建物や武家屋敷風建物が両側に並ぶ柳町通りは、長崎街道が最も街道らしい輝きを放つところだ。しかし、この電柱と電線は何とかならないものか…。 |
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●いまやすっかり空洞化して、シャッター銀座となった佐賀市の目抜き通り。昼なお薄暗い白山通りから呉服元町のアーケード街を抜けると、青空の眩しさがひときわ目に染みた。しかし、いったいどうしてこんなことになったのか…。
思い出したように南下を始めた街道は、いつの間にかふたたび東に向かって進み始めている。ま、元の鞘に戻ったということか。
そんな柳町通りに入ると、道の両側に古く美しい建物が並ぶようになる。終点が近付き、いよいよこの街道歩きのハイライトともいうべき、見応えのある景観が視界に広がり始めた。佐賀が歴史ある大藩の城下町だということを再認識させられるのは、やっぱりこんなときなのだな。
まず迎えてくれるのが、レンガタイル貼りの大正モダン風洋館、旧古賀銀行のしゃれた建物だ。続いて同銀行の元頭取の住宅だった、武家屋敷風の旧古賀家。道を挟んだ向かい側には、いまは自然食レストランとして活躍中の旧中村家に、佐賀城下に残った最古の町屋建築といわれる旧牛島家。明治15年設立という堂々たる蔵造りの旧三省銀行も、また独特の存在感を放っている。
これらの建造物群はいまは内部が一般公開され、全体で佐賀市歴史民俗館を形成している。できれば一つひとつ中をじっくり見て回りたいが、今日は長崎街道踏破を優先するためにパス。というか、要は足腰がくたびれ果てて、エネルギーの余裕が無くなったわけだが…。
それにしても、並び立つこうした豪華な建物を見るにつけ、衰退した現今の佐賀の商店街をつい比べてしまう。
昔は賑わっていたんだろうな、という話ではない。デザインの話でもない。何かこうパワーというか、放つオーラが違うんだよなあ!
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佐賀城下に残された最古の町屋建築、旧牛島家。江戸中期に建てられたものだという。
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漆喰壁に銅板の窓が印象的な旧三省銀行は、明治15年設立の蔵造り建物。
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| 橋の名は「思案橋」。かつての佐賀城下のこの辺りには遊郭が立ち並んだというが、悩める男はいつの世もどこの国にもいるという証か…。 |
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街道脇のあちこちには、実に様々な姿の恵比寿像が祀られている。
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構口番所跡の標識。当時は東から入る旅人を、ここで厳しくチェックしたのだとか。
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| 城下への東の入口「構口橋」。たもとの大楠の青々とした新緑が、ゴールを飾っていた。 |
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●紺屋川に架かる思案橋を渡り、しばらく歩くとついに終点。
傾いた西陽がアスファルトの上に、家々や電柱の長い影をくっきりと映している。おもえば約6キロの長い旅路だったが、われながら良く歩いたものだ。ああ、足の裏や踵が痛い…。
ゴールで待っていたのは構口の番所跡。
しかし、「構口(かまえぐち)」とは言い得て妙だ。これは宿場の出入口に設けられた門塀のことで、それぞれの宿場に設置されていたもの。佐賀の場合、小倉方面からやって来る旅人をこの番所で待ち構え、厳しく吟味したというが、きっといまの空港の入管よりも怖い存在だったのだろう。
もっとも、旅人の中には脇街道を利用するズルい奴もいたらしく、昔も今も当局の目をすり抜ける不届き者は、後を絶たないようだ。藩ではそのため、天明5年(1785)に構口、八戸のほかに、数ヶ所の木戸や番所を設けたのだという。
心地よい疲労感と達成感を全身に覚えながら、十間堀川に架かった構口橋の上に立つ。首筋をゆっくりと汗がすべり落ちる。見上げれば頭上には、大きな楠の古木が枝いっぱいに新緑を輝かせ、このささやかなゴールインを祝福していた。
ここまで、あちこち寄り道しながらの約3時間。西から東へ佐賀城下を横切る長崎街道の旅は、ようやく終わった。
腹も減ったがけっこう楽しめた、というのが率直な感想かな。ま、充実感はある。なにより、この曲折の多い道を歩くうち、佐賀藩の歴史や佐賀人のものの考え方などが、しだいに分かってくるところが面白かった。多かれ少なかれ、かつてここを通った旅人達も、たぶんこれと似たような思いを抱いたんじゃないのだろうか。
[文と写真:城島敏明]
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