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●へえ、こりゃまたお洒落な駅舎だ──。JR長崎本線の牛津駅に初めて降りた乗客は、たぶん誰もがこんな感想を抱くのではなかろうか。
真新しい煉瓦タイルに覆われたこぢんまりした建物は、「津の里ふれあい館」という地場産品の展示施設を隣接し、すぐ脇にある公衆トイレまでもが同じ色のタイル貼り。それらが並ぶ姿は、まるで煉瓦造りの古い倉庫群のようでもあり、なかなかの壮観だ。町づくりのコンセプトが、この駅舎のデザインに凝縮されているとするなら、これはかなりグッドジョブじゃないのかな。
4町が合併して誕生した小城市の中心部として、表舞台に踏み出そうとするこの町の意気込みが、しぶい煉瓦タイルの色から自然と滲み出しているようにも見える。
九州の浪速(なにわ)──かつてはそう呼ばれ、商業の町としておおいに賑わったという牛津。町なかを長崎街道が通り、水量豊かな牛津川が流れるこの町は、宿場としてまた荷の揚げ下ろしをする川港として、藩政期から明治期にかけて華やかな繁栄の時代を謳歌したのだという。
今日はこの駅舎を基点に、町を東西に横切る長崎街道をじっくり歩いてみることにする。復活に賭ける商都の現況やいかにというところだが、ちょっと蒸し暑いのが玉に瑕か…。まあ、元気を出して行こう! |
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まるで煉瓦造りの古い倉庫群を思わせる、お洒落なデザインの牛津駅。
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| 牛津駅前の広場には、かつての新町の賑わいを描いた陶板があった。商家のすぐ後ろを牛津江川が流れ、荷を積んだ船が行き来している。川の向こうに並ぶのは小城藩の米蔵か。 |
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| 六間橋を越えて砥川大橋に向かう長崎街道。人影のない新町通りの家並みには、どこか往時の雰囲気が残っているようにも見えるが…。 |
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わずかに残る古い商家が、辛うじてここを旧街道だと思い出させる。
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新町のすぐ裏を流れる牛津江川。かつてここを、荷を満載した帆船が行き来した。
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| 通りのそこここには、どこか寂しげな古い恵比寿像がひっそり佇んでいる。 |
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●牛津駅のすぐ目の前を通る長崎街道を、まずは西に向かって歩く。
少し物憂そうな午後の日差しが、頭上から遠慮なく照り付けてくる。やはり暑い。遠く前方の山上には、日本山妙法寺の白いパゴダが、まるでマシュマロのようにぼんやりと霞んで見えた。
牛津江川に架かる六間橋を渡り、とりあえずは牛津川に架かる砥川大橋を目指して歩く。
二つの橋の間が新町で、ここは駅前の陶板の絵に描かれていたように、かつては商家が軒を並べ人馬が行き来する、殷賑を極めた通りだった場所。商家のすぐ裏を通りに平行して牛津江川が流れ、そこを日々、荷を運ぶ船が頻繁に出入りしていたのだという。荷揚げされた品は問屋を経て、商人の手により各地で売り捌かれた。
「一(市)は高橋、二(荷)は牛津」と俗謡にもうたわれたほどの賑わいで、記録によれば文政12年(1829)の新町には、約300軒もの人家が密集していたそうな。
新町の歴史は、小城藩祖・鍋島元茂が小城町に藩士の屋敷割りをしたときに、一緒に町立てをしたのが始まりだというから、なるほどこれは相当に古い。由緒といいその繁栄ぶりといい、かつてこの通りは間違いなく、牛津を代表するメインストリートだったようだ。
が、しかし…。時の流れの残酷さを感じるのは、こんなときなんだよなあ。
いま、この通りの上に動くものといえば、ときたま国道34号線から抜けてきて、この裏道をわがもの顔に走り去る自動車のみ。それ以外に人影はむろん、犬や猫の姿さえ見ることはない。通りの両側に並ぶ家々にも、もはや歴史ある商店街の面影はなさそうだ。 わずかに、ここが旧街道だと気付かせてくれるのは、所々にぽつんと置き忘れられたようにして立つ、数軒の茅葺きの古い商家。だが、そのいずれもが屋根をくすんだ色のトタンで覆われており、むかしの美しさを偲ぶよすがもない。中にはすでに空き家になったらしい店もある。そうか、ここはもうかつての新町とは別の町なのだな…。
隆盛を誇った牛津の水運業も、明治中期に開通した鉄道に荷客を奪われ、やがてその役割を終えることになる。商都の命運は、どうやらそこで尽きたのだろう。その後の新町が、まるで身辺整理でもしたように、かつての面影をスッパリと捨ててしまった理由は知らないが、ある意味それはそれで潔い、一つの身の振り方だったのかも知れない。
いまでは、そんな町の盛衰の一部始終を知っているのは、家々の角にひっそりと佇む、古い石の恵比寿様だけになってしまったようだ。
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●砥川大橋から眺めた牛津川の景観は、なかなかのものだった。
北の上流の方角に目をやると、すぐ前方に立派なトラス式鉄橋があり、その上を車がバンバン走っている。国道34号線が通る牛津大橋だ。ライトブルーの鉄骨の隙間からは、梅の名所で知られる牛尾山の姿がくっきり。南の下流側を見れば、これまたすぐ目の前で東方から流れ込む牛津江川が合流し、さらにその先には長崎本線の鉄橋も横切っている。
国道、旧街道、鉄道の三つの橋が並ぶ牛津川のこの辺りは、おそらく遠い昔から交通の要衝だったのだろう。
六角川と合流し有明海に注ぐ牛津川は、川幅や水量にも恵まれ、古くから物資の輸送路として水運を発達させてきた。牛津はその内陸部への入口という地の利を活かし、運輸の中継地として隆盛した町なのだ。牛津川の賜物──良くも悪くも、それがこの町に相応しい言葉なのかも知れない。
ちなみに「牛津」の地名は、潮(うしお)の入る津(=みなと)から来たという説があるが、面白いことにイギリスの名門大学で知られるオックスフォードも、漢語に訳すと「牛津」になるらしい。こちらはそのまま「Ox(牛)+ford(渡し場)」で、牛の渡し場を意味するらしい。なるほど「牛津大学」か…。
この後さらに街道を西に進み、国道34号線との合流地点を確かめたところでUターン。再び歩いて駅まで戻ったときには、けっこうな大汗を掻いていた。 |
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国道34号線が通る牛津大橋の向こうには、牛尾山が手に取るように見えた。
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| 砥川大橋からさらに西に伸びる長崎街道。このまま最勝寺の付近で国道34号と合流する。 |
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| 国登録有形文化財にも指定された「牛津赤れんが館」は、かつて田中丸商店の倉庫だったもの。いまは“商都”牛津を象徴する堂々たる文化遺産だ。 |
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赤煉瓦と釉薬煉瓦が混在する「赤れんが館」の壁は、どこまでも深く味わいのある色をしている。
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再開発が進みお洒落に変身した長崎街道。歩道の赤い煉瓦タイルがなかなか良い。
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牛津町商工会館の建物も、「赤れんが館」のデザインを踏襲している。
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●好対照──とはこのことだろう。
駅前を再スタートして東に歩を進めた長崎街道は、そこで大きな変貌を遂げていた。広い車道の両側に、並木のある赤い煉瓦タイルの歩道。人や車こそ少ないものの、眼前にはまるでこれまでとは違う、小洒落た装いの商店街が続いている。どうやらこの辺りが、現在の牛津の町の中心部らしい。
感心しながら歩くうち、街道から右に一本抜けた脇道の角に、瀟洒な煉瓦造りの古い蔵があるのを発見。それにしても美しい。案内板を読むと、旧田中丸商店の倉庫だったという建物だ。そうか、ここが後に玉屋デパートを創業した、牛津商人・田中丸善蔵の拠点だった所か──。
生まれて初めて“デパート”に出会った少年の日の興奮を、いまでも鮮明に覚えている。
目を見張るほど広く華やかな商品の売場。どこからともなく漂う、ポップコーンやコーヒーらしい香り。そして、ジュークボックスからは流行りの洋楽が流れ、玩具売場には西部劇でお馴染みの拳銃が並んでいた。初めて乗ったエレベーターでは、目眩を覚えたりもしたもんだ。
とにかく、それまで田舎の商店街しか知らなかった少年にとって、デパートとはこの世に実在する“夢の国”そのものに違いなかった。
そのときのデパートが当時、佐賀市の呉服町にあった玉屋だったというわけで、いまは「牛津赤れんが館」として保存されているこの倉庫の前で、つい小さな感慨を覚えてしまったのだが…。
田中丸善蔵は明治14年(1881)牛津の生まれ。初代善蔵の営む呉服問屋の跡取りとして修行した後、31歳のとき父の死により二代目善蔵を襲名。持ち前の商才で事業を広げ、大正から昭和にかけて佐世保・福岡・佐賀と相次いで玉屋デパートを開店し、九州財界にその名を轟かせた人物だ。いわば、牛津商人の代表的な成功者。
現存の倉庫は明治中〜後期に建てられたものだというが、隣接する豪壮な旧邸宅といい、田中丸家の当時の勢いが今でも伝わってくるようではないか。
駅舎を始めとした施設や整備された歩道などを見れば、この町がいま赤煉瓦をモチーフとして、新たな町作りをしようとしているのが分かる。それはたぶん郷土の先人に対する敬意であり、“商都”の伝統を守りたいという意思の表れなのだろう。
いいねえ。その明確なコンセプトと実行力に、陰ながら拍手だ。
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| 「赤れんが館」に隣接する「牛津町会館」は、田中丸家の旧本宅だったという豪壮な屋敷。いまは町に寄贈され集会所などとして使われているそうだ。 |
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●栄町から本町へと進む街道は、乙宮神社の前で直角に右に折れ、そのまま牛津高校の正門前まで伸びている。きれいに整備された一直線の通りは、まるで参道のような趣だが、人や車の数の少ないのがやや気になる。並木や石畳の歩道もあって雰囲気のある商店街なのに、もったいない話だ。
その乙宮神社をちょっと覗いてみた。
鬱蒼とした木々に囲まれた古社で、石の鳥居から「乙宮社」の額の掛かった拝殿まではかなりの奥行き。堂々たる社殿の造りが、風格をさえ感じさせる。先日の台風13号の強風で、石灯籠の一つが被害を受けていたが、いまは早い復旧を祈りたい。
この神社には古い由緒書が残されており、その中に「鎮西八郎為朝の黒髪山大蛇退治」に関する記述があるという。つまり「牛津」の地名伝説を語るものだが、それによると為朝が退治した大蛇の鱗三枚を、牛の背に積んでこの辺りに差し掛かった折り、重みに耐えかねて牛が急死。その死骸を葬った場所が「牛津」となり、尻尾を葬った所が「牛尾」となったのだとか…。
面白い話だが、やっぱりここは潮(うしお)の入る津の方が説得力があるなあ。
本町通りを歩いていると、歩道のあちこちにきれいな陶板製の解説があるのに気付く。見れば「上使屋跡」や「継ぎ場跡」「郡継ぎ場跡」など、古図のカラー印刷付きで宿駅の施設を説明してある。ここは長崎街道の宿場町でもあるのだな、やっぱり。
「上使屋」とは、街道を行き来した大名や奉行が使用した、小城藩経営の宿泊所のことらしく、図を見ればその広さに納得。また「継ぎ場」は一般旅人の荷物を、「郡継ぎ場」は大名・奉行のための荷物を、それぞれ集配した施設のことだったらしい。
それにしても商都としてだけではなく、こうした宿場町としての歴史も大事にしながら、新しい町づくりをしている牛津の姿勢は、訪問者にもよく伝わってくる。
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乙宮神社の参道のような商店街。きれいに整備されているが、人通りの少ないのが残念。
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珍しい蔵造りの靴屋さん。こんな店があると町歩きも楽しくなるなあ。
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歩道の所々には、宿場の諸施設を解説する陶板が。
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商店街に立つ石の門から、少し奥まったところの真正面にある正満寺本堂。
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●今日のゴールは護城山正満寺。牛津高校の前を左に折れて、少し進んだ通りの左側にある寺だ。立派な石の門から少し奥まった正面に、日の光を受けた本堂の甍が灰色に輝いていた。
この寺はかつて、街道を往復する大名やオランダ商館員などのため、脇本陣として利用されたという名刹で、文政9年(1826)にはかのシーボルト一行も、江戸参府の途中に立ち寄ったのだとか。上使屋をはじめこの正満寺や各旅籠など、当時の牛津宿は全体として設備の整った、キャパシティの広い宿場だったのだろう。
しかし、西の方から来て牛津川の橋を渡ったシーボルト一行は、どんな思いで新町筋の賑わいを通り抜け、どんな眼で宿場の家並みをながめたのだろうか──。そんなことをちょっとだけ、訊いてみたくなったりした。
[文と写真:城島敏明]
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