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●JR鳥栖駅といえば駅前の鳥栖スタジアムと、構内の立ち食いうどんの味で知られている。鳥栖スタはむろん、Jリーグ2部で活躍するわがサガン鳥栖のホームグラウンド。だから、たまの試合観戦の日などは駅ホームに降りた後、名物「かしわうどん」を一杯かき込んでから、意気揚々と会場への長い陸橋を渡るのを常としている。サガン鳥栖とこのうどん、一度はまると癖になる点が、よく似ているのかも知れない。
そんな、日頃から馴染みのある鳥栖駅周辺だが、今日はいつもとは違う道を選び、長崎街道の田代宿まで歩くことにする。ちなみにこの日、サガンはアウェイ戦。スタジアム一帯は閑散としていた。
え、佐賀県内に対馬藩領があった──? 恥ずかしながら、初耳だった。そこで、急いで「幕末の藩領域図」なるものを開いてみると、ははあなるほどね…。
いまの県域の大半を治めていたのは、むろん鍋島家の佐賀藩。その北部には東松浦半島を中心にした唐津藩があり、右下の厳木を含む三日月形の地域一帯には天領もあった。──まあ、ここまでは何となく知っていた。
だがよく見ると、福岡藩と久留米藩の間に楔のように突き出した今の鳥栖市辺りと、唐津湾に面する浜崎辺りだけは、たしかに対馬藩領となっている。そう、か──。対馬藩といえば宗(そう)家だが、思わずそんな駄洒落を呟きたくなるほどの小さな飛び地を、こんな所に持っていたのか。
田代(たじろ)宿は、その対馬藩田代領にあった長崎街道の宿場で、現在は鳥栖市東部に位置している。なので、西隣が佐賀藩領の轟木宿、東の隣は福岡藩領の原田宿という、ユニークな状況なのも仕方がない。どうやらここは、佐賀県内に残る宿場の中では、ちょっと異質な空気を感じ取れる場所のようだ。
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鳥栖市のシンボルともいえる鳥栖スタジアム。こんな最高のホームを持つサガン鳥栖は幸せだ。
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スタートは轟木川。かつてはこの川が、佐賀藩領轟木宿との境界だった。
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JR長崎本線のガードをくぐりしばらく歩くと、道は徐々に旧街道の雰囲気を漂わせ始める。
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| 美しい格子に白い漆喰壁など、かつての瓜生野の賑わいを彷彿とさせる、瀟洒な町屋がしばらく続いている。このあたり、なかなかの景観だ。 |
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見事な白壁の土蔵や格子、門などが続く瓜生野の商家は、風格に溢れている。
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格子窓の中央の柱に残る鉄製の輪は、ひょっとして“馬留めの輪”か?
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道の右側にも古い商家風の建物が…。それにしても立派な門構えだ。
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●スタート地点は、轟木川に架かる橋の上。コンクリートで護岸された小さな川は風情の欠片もないが、かつてはここが隣の轟木宿との境界だったというから隔世の感ありだ。つまり、西の佐賀藩領から来た江戸時代の旅人は、番所で手形を改められた後、この小川を渡って対馬藩田代領に入ったというわけ。そんな旅人の気分でこれから東に進み、田代宿を目指すことにする。
秋の乾いた日差しの中を歩くのは気持ちがいい。映画「月光の夏」の舞台となった鳥栖小学校の門前を過ぎ、JR長崎本線のガードをくぐってしばらく行くと、道の左側に白い漆喰壁と格子の美しい旧家が続くようになる。へえ、と思わず唸りたくなるほどの景観だ。
この辺りはかつて瓜生野(うりゅうの)町と呼ばれた所で、現在の町名は秋葉町。
江戸後期の瓜生野は商家の家並みが5丁(約545m)ほども続く町だったというから、かなりの繁華街だったのだろう。目の前の、みごとな土蔵や門を構えた町屋風の家々も、いずれもどっしりした風格を漂わせており、往時の繁栄ぶりを十分に偲ばせる。位置的には轟木宿と田代宿の中間にあたるという町だが、歩き疲れた旅人にとり、立ち並ぶ商家の店先を覗くのはまた、一つの楽しみだったのかも知れない。
しかし瓜生野という素敵な町名、どうして変わってしまったのかな──?
そんなことを考えているうち、格子窓の真ん中の柱に、鉄製の小さな輪を発見。ん、これはひょっとして“馬留めの輪”ではあるまいか…?
たちまち古い記憶が甦る。
かれこれ二十数年前、東海道の有松宿(愛知県)を歩いたとき、やはり古い商家の柱にこれと同じものを見たことがあった。おお、そうだった。まあ同じ街道筋の町だから、荷駄を繋ぎ留める金具が共通していても、別に不思議はないはずだが、それにしても懐かしいなあ。
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●見上げると、午後の秋空はどこまでも青い。その空の青さに吸い寄せられるように、秋葉町から駅通りの交差点を経て本町へと、一直線に長崎街道を北上する。しかし、かつてはこの二つの町が、一つの瓜生野町を形成していたというから、ずいぶん長い町並みが続いていたわけだ。
そんな瓜生野町の北の端にあったのが、八坂神社。中に入ってみると、白い砂地の広い境内はひどくガランとしており、まるで人影がない。立派な石の鳥居の奥に、鬱蒼とした老木に包まれるようにして、意外に小さな社殿がポツンと立っていた。
傍らの説明板によれば、正安元年(1299)に京都から勧請した祇園宮だったものが、明治期の神仏分離令により、現在の「八坂神社」になったのだという。ずいぶん古い創建だが、雰囲気といい社域の広さといい、ここが伝統ある神社なのは自然に伝わって来る。
さらに説明板は、瓜生野が室町時代からこのお宮を中心に栄えた商業地だったことや、江戸期には街道を行く旅人がここを安らぎの場としたことなども語っている。なるほど。いまでこそガランとしているが、道の主役が車ではなく人間だった時代、ここは多くの人が集まるコミュニティの場であり、文化の中心地だったのだろう。
そんな眼で神社の拝殿を見上げれば、それがまた急に立派なものに見えてくるから不思議だ。
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一直線に北に伸びた本町の通り。ここもかつては瓜生野町だったわけだ。
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700年以上の歴史を誇る古社、瓜生野八坂神社。境内はとても広い。
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| 田代外町の街道沿いにある地蔵堂の前には、自然石で作られた小さな「追分石」がある。道の分岐点に設けられた当時の道標で、どうやら「右さか(佐賀)、左くるめ(久留米)道」と彫られているらしい。 |
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| 行く手に久光製薬の社屋や巨大な屋上看板が見えてきた。気が付けばこのあたり、電柱の看板もみな「サロンパス」なんだなあ。 |
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「田代宿町本陣」と書かれた標識。ただし、今は何もないのが残念。
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「隆正館」は久光製薬がサガン鳥栖の選手寮として提供している施設だ。
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やがて街道は久光製薬の正門前を通り過ぎる。屋上のサロンパスの看板がでかいなあ!
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●旧瓜生野町から古野町、本鳥栖町を過ぎ、かつて田園だったような田舎道を、田代宿に向かってのんびり歩く。冷えたペットボトルの水が、喉に心地好い。大木川の橋を渡ったあたりから、いよいよ宿場の西の玄関だったという、田代外町へと入る。
人家が密集し始めてあたりが町らしくなって来ると、思わずホッとするのは昔も今も変わらない人情だろう。街道脇には「追分石」や本陣跡を示す標識などが目立つようになり、緩い坂道のむこうには久光製薬の社屋や屋上看板も見えてきた。やっと田代宿の町なかに来たらしい。 ここ田代で生まれた久光製薬は、鳥栖市を代表する企業であり、サロンパスの名は全国的にも有名だ。弘化4年(1847)に久光仁平が創業した小松屋がこの会社の前身といい、現在では一流医薬品メーカーとして不動の座を占めている。かつては「サロンパス」という名の女子野球チームが、佐賀の田舎を巡業したりしていたものだが…。
その久光製薬が田代から生まれた背景には、ここが「田代売薬」で知られる薬の町でもあった、という経緯がある。
江戸期に対馬藩領だった田代だが、対馬藩といえば朝鮮貿易。藩が輸入した漢方薬や朝鮮人参などを元に、田代ではもともと薬の生産が盛んだったのだという。やがてこの薬は、行商人の手で九州一円に売り捌かれるようになり、田代売薬として大きく発展して行く。久光製薬という巨大な果実は、こうした土壌から育ったというわけだ。
もしここが佐賀藩領だったら──そんなことを考えると、ちょっと複雑な気持ちにもなるが…。
サガン鳥栖の選手寮として、久光製薬が提供している「隆正館」の前を経て、街道はやがて同社の正門前を通り過ぎる。かつて人馬の継立を行ったという、問屋場跡の辺りだ。
考えてみれば田代生まれのこの会社、全機能を東京に移転することもせず、創業の地にしっかりと根を張り続け、さらには、鳥栖を代表するサッカーチームのサポートもしている。胡麻を摺るわけではないが、そこには地域密着型企業としてのポリシーが感じられ、好感が持てる。
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| きれいに手入れされた白い漆喰壁に、古い格子窓の色がよく似合う商家。街道沿いにはこんな旧家が所々に点在するのだが…。 |
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| わずかに左にカーブする長崎街道。道はすでにかつての田代宿の中心部に入っているはずなのに、宿場町の面影はどこにもない。 |
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●秋の陽が傾くのは早い。高札場があったという大官町の丁字路を右折して東に向かい始めると、路上に落ちた自分の影がかなり長くなっているのに気付く。や、行き交う車の量が急に多くなったぞ。
道はすでに、かつての田代宿の中心街に入っているらしい。
だが、たまに見事な格子の旧家こそ点在するものの、宿場らしい町並みの風情はどこにも見当たらない。ただ、時代遅れの旅人を押しのけるように、車だけが次々とすぐ脇を走り去って行く。どうやらこの街道沿い、時代の波に洗われ過ぎて、すっかり様変わりでもしてしまったのか…。
そんなとき、田代上町にある小学校の門の横に、「田代代官所跡」の案内板を発見。そうか、ここがそのむかし女優の松雪泰子が通っていたという、田代小学校だな──。ちょっとドキドキしながら、案内板を覗いてみる。
それによれば、元和年間(1615〜1624)に建てられたという対馬藩の代官所は、当時「御屋舗」と呼ばれ、かなり広大なものだったらしい。また、嘉永4年(1851)に改築されたときの平面図にも、本屋・表屋・賄屋からなる、やはり広い屋敷が描かれている。そうか。現在の小学校はどうやら、その代官所の跡地に建てられた、地域でも伝統のある学校なのだろう。
子供の頃の松雪泰子ちゃんも、きっと先生からそんなお話を聞かされたんだろうなあ…。
この後、街道を驀進するダンプカーに命を脅かされながら、宿場の中心に位置していたという八坂神社に到着。こちらも瓜生野のものと同じく、広い境内を持った雰囲気のある神社だが、やはりガランとして人影がない。立てられた案内板によれば、江戸時代の田代宿は人家が500軒ほどで、茶屋・宿屋が多かったそうだ。
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街道沿いの田代小学校。門のすぐ脇には、田代代官所跡を説明する案内板がある。
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広瀬淡窓が教鞭を執ったという、対馬藩の藩校・東明館跡の石碑。
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田代の八坂神社もやっぱり深閑としている。ただし、鳥居の前の街道は車の往来が激しい。
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傾いた秋の陽が街道を夕方色に染め始める。もうゴールはすぐそこだ。
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民家の塀に身を寄せるようにして立つ田代昌町の追分石。右の小径が日田・英彦山へと続く。
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●ゴールに着いたのが午後4時頃。
目印の田代昌町の追分石は、街道に面する民家の塀の陰で、ちょこんと小さく立っていた。宿場の東の出入口にあった道標で、自然石の表面には「右ひこ(英彦)山、左こくらはかた(小倉・博多)道」の文字が刻まれているらしい。なるほど、住宅街の中に消えている右側の小径は、豊後の日田・英彦山に通じているのか…。
思えば田代とは、様々な街道が交差した希有な町だ。長崎街道を西に行けば佐賀藩から長崎へと至り、東に行けば福岡藩を経て小倉に着く。また、外町の追分けを左に進むと久留米から南九州にルートが繋がり、この追分けからは天領の日田方面へ進めるというわけだ。
現代でも、この近くの鳥栖ジャンクションでは長崎自動車道と九州自動車道が交差し、JR鹿児島本線と長崎本線は鳥栖駅で分岐している。そう、鳥栖一帯はいまも昔も交通の要衝なのだ。
対馬藩が手に入れた、田代領というこの小さな飛び地。やがてそこから、朝鮮交易の恩恵として製薬業が生まれ、地の利を活かして行商人が各地に飛び出して行く──。
不思議なものだ。幾重にも重なり合った歴史と地理の堆積層が、佐賀県の他の土地にはない自由な気風と産業を生み、いまはサガン鳥栖という、佐賀の新しいシンボルを育んでいるのだから。
[文と写真:城島敏明]
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