【その1】
肥前浜宿 酒蔵通り
【その2】
川の町、塩田
【その3】
佐賀城下を東へ
【その4】
牛津 赤煉瓦の町
【その5】
対馬藩領田代宿
【その6】
小田の分かれ道
【その7】
神幸の里、神埼
【その8】
波の音する北方
【その9】
武雄 湯煙と大砲
【その10】
大町うらうら行
【その11】
嘉瀬川を渡れば
街道ばゆく
その6.小田の分かれ道

子供の頃、親父に連れられて何度か佐世保の伯父の家に遊びに行ったことがある。ささやかな旅行だったが、そのときの胸のときめきはいまもよく覚えている。小城という田舎町育ちの少年には、港に米軍の艦船がひしめき水兵が闊歩する当時の佐世保は、眩しいほどの大都会だったのだ。
 まず唐津線で久保田へ出て、そこから長崎本線に乗り換える。
 やがて汽車は肥前山口という駅に着き、しばらく停車。このとき、親父にねだって売りに来た駅弁を買って貰い、いそいそと食べるのが、実は佐世保に行くときのもう一つの楽しみだった。卵焼きのほのかな甘さ、噛むほどに味がしみ出す高野豆腐の不思議さ──。それらはまさに少年にとり、“旅の味”そのものに違いなかった。
 汽車が肥前山口で停車するのは、長崎本線のレールがここから長崎方面と佐世保方面に分岐するため。客車を切り離したり別の機関車に接続したりという、儀式のような作業を見るたびに、子供心にここは特別な駅なのだと思ったものだ。そんな理由からか肥前山口と聞けば、いまでもあの頃食べた駅弁の匂いと、佐世保への分かれ道だという記憶が、頭の中で入り混じって蘇る…。

 長崎街道の小田宿跡を歩くため、その肥前山口駅に降りたのは、よく晴れた三月初旬の日曜日のこと。あの頃の風景を探して辺りを見回してみたが、ホームも駅舎も当時とは比べものにならないほどきれいになっていた。まあ、当然といえば当然なのだが、ちょっと寂しい気もするなあ。
 小田宿は、現在の杵島郡江北町大字上小田。
 東から長崎に向かう街道は、かつてこの宿を経て北の塚崎道と、南に行く塩田道に分かれていた。さらには有明海沿いに南下する多良往還(浜道)も、ここを起点として枝分かれをしている。やはりむかしからこの辺りは、交通の分岐点だったというわけだ。
 駅を出て国道34号線を渡り、「日乃出屋旅館」という看板の出た建物右脇の狭い露地を進むと、旧長崎街道はすでに足元にあった。

肥前山口駅の前を東西に走る国道34号線。日乃出屋旅館を挟んで斜めに入る露地が、旧長崎街道だ。

道端に咲き誇るナズナの群が、春の到来を告げていた。

小田は長崎街道が枝分かれする、その分岐点にあたる宿場。

両側に麦畑が広がる旧街道を小田宿に向かって歩く。いまは何の変哲もない舗装道だが、往時はなだらかな山々を遠望する、平野の中の小道だったのだろう。

麦畑の向こうに連なる山々は、どれもがみな柔和な顔をしている。

細い道の両側に小さな家並みが続く。ここらが旧小田宿への入口か…。
旧街道らしからぬ細い露地は、イイダ靴下工場の裏を抜けるといったん国道34号に戻り、弾かれたような角度でまた北西の方角に分かれて行く。
 歩くうちやや道幅が広くなり、両側に麦畑が広がり始めた。何の変哲もない田舎のアスファルト道は、風情のかけらもあったものではないが、周囲に連なる山々の姿はなんとも美しい。街道を取り巻く平野の風景は変わっても、あの山容だけはおそらく二百年前のままなのだろう。
 三月とは思えない強い寒風が北の方から吹き付け、体感温度は10度以下。えらい日に来てしまったものだが、これも日頃の行いの報いなのか。そういえば三十代の頃、同じ季節に信州の中山道を歩いたときにも、雪を被った山々からこんな風が吹き下ろしていたっけ──などとつい思い出してしまう。
 それにしても、風邪を引きそうだ。ウ〜ッ!

 歩くこと30分近く、北西に向かっていた街道は小さな丁字路にぶつかり、左に折れ曲がる。
 ついに来たぞ。どうやらここが、旧小田宿の入口あたりらしい。道はそれまでのアスファルトから、きれいな保水性ブロックの舗装に変わっている。
 目を凝らすと、その細い道路の両側には、人気のない小さな家並みがずっと奥の方まで続いていた。

寂れた風情の古い民家がポツポツと点在し、どことなく旧街道らしい雰囲気が漂い始める。ただ、小さな集落のどこにも人影はない…。

冬の関東地方を思わせる乾いた真っ青な空の下、吹き抜ける風に身を縮めながら、狭い通りをゆっくりと歩く。
 だが小さな集落のどこにも、かつての宿場らしい面影は見当たらない。ただ、所々に点在する寂れた風情の民家が、デジカメのモニター画面を、どこか懐かしい色に染めているばかり。
 雰囲気だけはなかなか良い。しかし、ここには人が住んでいるのだろうかと、ちょっと心配にもなる。ほんとうにこの宿にその昔、ケンペルや吉田松陰が泊まったのだろうか、と…。

 正栄寺と一行寺という二つの寺の前を過ぎ、そこからしばらく歩くと、通りの右側に苔むした石造りの可愛い橋が現れた。え「橋幸夫」…? いや、そこには「御幸橋(みゆきばし)」と刻まれており、すぐ先には「天子社」の額がある立派な石の鳥居も立っている。
 天子社は応神天皇を祀るここの神社で、社殿は西へ400メートルほどのところにあるらしい。永徳元年(1381)に、小田の庄司広次が定めた小田三社宮の一つだといい、もともとの祭神は神功皇后だともいう。古い起源を持つ社なのだな。
 ここはどうやらその参道らしいが、見れば背景の山といい周囲の木々の繁り具合といい、あたりの風景はなんだかわらべ唄そのものの世界。一幅の絵になっている。
 なにより、大勢の子供がそこらで遊んでいるのに、ホッとさせられた。
 自転車に乗る子、サッカーボールを蹴る子、よく見ると年長者から低学年らしい子供まで、年齢層はバラバラだ。それらが一緒になり、元気のいい声をあたりに響かせている。いいなあ。むかしはみんな、こうだったんだよなあ。都会ではすっかり見られなくなったこうした子供の集団が、佐賀県の片田舎ではいまもバリバリ活動しているのが、とても嬉しい。
 もっとも、こういうとまるで絶滅危惧種のメダカのように聞こえてしまうのが、少し残念だが…。

 道はやがて見通しの良い直線になり、左手に白い漆喰壁の商家らしい建物も見えてきた。ようやく少しだけ、街道歩きの雰囲気が楽しめそうだ。
正栄寺のすぐ隣にある一行寺。ともに慶長年間(1596〜1615)に開基した寺だという。

御幸橋から続く参道は、石の鳥居の先の天子社まで続いている。いい眺めだなあ…。

めったに車も通らぬ旧街道は、近所の子供たちの遊び場でもあるのだろう。

この辺りの地主だったという関川家。白い漆喰壁に格子という堂々たる風格を持つ商家で、街道でひときわ異彩を放つ存在だ。

小田宿のランドマークともいえる、馬頭観音堂と大楠。元禄3年(1690)にはケンペルが、文政9年(1826)にはシーボルトが、ここを訪れている。

「こんにちはぁ」
 路上で遊んでいた小学生らしい女の子に、いきなり声を掛けられる。
「はい、こんにちは」
 少しどぎまぎしながらそう答える。怪しげな訪問者にも元気良く挨拶してくれる、子供の声にはまるで屈託がない。寒さで縮こまっていた自分の心が、ほんの少しだけほぐれたような気がした。
 そういえば、東京に住んでいた頃は皆無だったのに、佐賀ではこんな体験をすることが案外と多い。小・中・高を問わず、見知らぬ生徒に道で挨拶されて、慌てて返事することもしばしばだ。子供たちはきっと、学校や家庭でそう躾られているのだろうが、これは佐賀県が誇るべき美風じゃないのかな。みんな、偉いぞ!

 白い漆喰壁と格子がみごとな関川家の前を通り過ぎると、やがて道の右側に小さな堂宇と、注連縄の張られた巨木が現れる。いまでは小田宿の面影を唯一伝える名所ともなった、馬頭観音堂と楠の老木だ。
 かつてはこの辺りが宿の中心部として賑わったらしく、ケンペルやシーボルトらも江戸参府の途中に、この馬頭観音を見学して記録に残している。シーボルトの『日本』に描かれた絵を見ると、当時は太い楠の幹に寄り添うようにして小さな堂宇が建てられており、参拝者は二階ほどの高さまで階段で上り、扉の中を覗いていたようだ。
 傍らの案内板によれば、かつて海辺にあった大楠の幹に馬頭観音像を彫り、人馬の安全と健康を祈願したのは、奈良時代の僧・行基で、天平9年(737)のことだったという。
 以来、1300年近くの年月が経過し、火災や風化、腐朽などにより楠は空洞化。いまでは幹を失ったその根元から二代目、三代目の枝が伸び、まるで妖怪のような奇観を呈している。また観音堂も、鍋島直茂や地元民などの手による数度の改築を経て、現在は新しい平成の建物が建立されている。
 思えば、長い歴史なのだ。
 かつてここが海辺だったというのも信じられない話だが、楠の生命力にもまた驚かされるばかり。この街道を通り過ぎたあまたの旅人を、この老木はどんな目で観察し続け、いままたこの宿の変わり様を、どんな思いで見つめているのだろうか…。

 お堂の裏側に立っていると、そこの広場で遊んでいた子供のサッカーボールが転がってきた。
「ほい」
 靴のアウトサイドで、近寄ってきた男の子に下手なパスを返す。両手でそれを拾い上げると、
「ありがとうございました」
 男の子はそういって頭を下げた。偉いねえ。いまのもきっと、この大楠は見ていたはずだな。
傍らには街道の地図の入った、大きなネームプレートが設置されていた。

1200年以上も生きる老木はまるで妖怪のよう。町の天然記念物に指定されている。

大楠の根元にはいつの時代のものか、崩れ掛けた数体の仏像が佇んでいた。

街道の西の方から大楠を見る。かつて巨大な幹が枝葉を茂らせていた頃は、遠くから来る旅人にとって格好の目印だったのだろう。

民家のブロック塀の脇に、真新しい石標がひっそりと立っていた。

長崎街道から分かれ、ずっと有明海沿いに南下する多良往還(浜道)。ここがその始まりだ。

観音堂のすぐ右側の民家の脇に、一基の真新しい石標が立っていた。そこには、この場に不似合いなほど鮮やかな金色で、「長崎街道 小田宿、脇街道 浜道」という文字が彫られている。
 そう、鹿島城下を経て浜宿から多良を通る、海沿いの多良往還(浜道)は、ここから南へと分かれて行くのだ。
 石標を背にして立つと、正面の方角に長崎街道からほぼ直角に分岐して、一本の道が麦畑の中に伸びていた。道は少しうねりながら、不揃いな民家の影の中に消えており、その先にはどこまでも青い空があった。空のむこうからはなにやら、有明海の波の音が聞こえるようでもある。
 そのむかし鹿島藩主の行列は、江戸からの参勤交代の帰りに、この浜道を下って行ったのだな…。
 いまではどうということもない田舎の小道も、想像力を膨らませればまた違う顔が見えてくる。人間、分かれ道に差し掛かると何かしらの感慨を抱いたりするものだが、少なくともこの角を曲がるとき、駕籠の中の鹿島の殿様もお供の家来たちも、どこかホッとした気分を味わったのは間違いないだろう。

 長崎街道をそのまま西へ進み、杵島高校の付近でUターン。元の石標の前までいったん戻って、駅までの帰りは浜道を行くことにした。道はこの先で国道34号と交差しており、そこを左に曲がれば肥前山口駅へのほぼ直線路となるのだ。
 両側を家並みに囲まれたそれまでの長崎街道から、やや細い浜道に入り少し進むと、周囲はすぐに何もない麦畑になった。吹きさらしの寒風が、たちまち全身に叩き付ける。サブ〜ッ! 行列の鹿島藩士の中には、きっとこの辺りで、大きなくしゃみをした者もいたんじゃなかろうか…。

[文と写真:城島敏明]
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