【その1】
肥前浜宿 酒蔵通り
【その2】
川の町、塩田
【その3】
佐賀城下を東へ
【その4】
牛津 赤煉瓦の町
【その5】
対馬藩領田代宿
【その6】
小田の分かれ道
【その7】
神幸の里、神埼
【その8】
波の音する北方

うかつにも「神崎」だとばかり思っていた。
 ここ「神埼」のことだ。サキの字が埼玉の埼と同じ、土偏だったとは気付かなかった。夏場には毎年、神埼そうめんのお世話になるはずなのに、人間の記憶なんて曖昧なものだ。
 そうめん以外に神埼と聞いて思い浮かぶのは、産出した芸能人の顔ぶれだろうか。大物では、かつて岡本喜八監督の映画などで大暴れした東宝の俳優・佐藤允がいるし、また美人タレントとして活躍中の荒木由美子や、怪芸人“エガちゃん”こと江頭2:50もここの出身だ。
 地味なイメージの佐賀県にしては豊作だが、それが神埼の風土と関係があるのか無いのか。ちょっと気にならないこともない。

 JR神埼駅から国道34号線に出て、西にしばらく歩く。
 城原川に架かる神埼橋の手前で左折すると小さな天満宮があり、その角から東の方角へ、石畳の敷かれたきれいな小道が一直線に伸びている。おお、素晴らしいアプローチ。神埼宿から田手宿までの長崎街道の旅が、いまここから始まるのだな。
 神埼は佐賀県の東部に位置する市で、北の脊振山系の山々から南部の平野かけて、南北に細長く伸びた形をしている。
 北の山々からは幾筋もの川が、平野を縦断して南に向かって流れており、その恩恵で、米作りに適した肥沃な土地がここに出来上がったらしい。神埼駅のすぐ東側にある吉野ヶ里遺跡の広大さを見ても、古代からこの辺りが人間にとって暮らし易い場所だったということが分かるし、平安時代の当地は皇室領「神埼荘」として開かれた荘園でもあった。
 神埼の長崎街道はそんな平野の真ん中を、南西から北東方向へとギザギザに折れながら徐々にセリ上がって行く、まるで右肩上がりのグラフのような形をしている。つまり、何となく縁起がいい。

 さあて、と。のどかな春の午後、復元された旧神埼宿西木戸の太い柱を横目に見ながら、人影のない石畳の上にそっと足を踏み出す。いつもながら、ちょっと好い気分だ…。

国道沿いの車買取り店の店頭には、地元出身の怪芸人・エガちゃんの顔があふれていた。

スタート地点の天満宮のそばに復元された、旧神埼宿の西木戸。はね上げ式の板戸だったという。

突き当たりの真光寺まで、ストレートに伸びた長崎街道。静かな門前町といったおもむきだ。

歩くごとに、道の左右に「神埼そうめん」の看板や幟が増えてくる。

きれいに舗装された道や石造りの立派な橋が、この通りを品格のあるものにしている。

真光寺と目と鼻の先にある浄光寺。広い庭や壮麗な建物に圧倒される。

それにしても真っすぐな道だ。
 景観の奥行きという観点からすれば、多少カーブのある通りの方が面白い。が、ここまで直球勝負なのも、それはそれで気持ちがいい。遠くの突き当たりには、真光寺本堂の大屋根がシンボルのように控えており、まるでこの一帯を門前町のようにも見せている。いや、おそらくここは、同寺の門前町として育った町筋なのではなかろうか。

 歩くうち、道の両側に「神埼そうめん」の看板や幟が増え始める。ふうん、やはりここは“そうめんの町”なんだな。
 神埼そうめんの歴史は古い。
 言い伝えによれば寛永12年(1635)のこと、小豆島から行脚してきた旅の僧が病で難儀していたところを、この地の伊之助という者が手厚く看病して助けたため、そのお礼として手延べそうめんの製法を教えたのが始まりだとか──。
 いつか聞いたようなエピソードだが、まあ名物と言われるものには、だいたい似たような話が多い。宮城県の名産「白石うーめん」には、やはり旅の僧から麺の製法を学んだという伝承があり、肥後の「南関そうめん」もまた然りだ。ブランド商品には昔から、それなりの伝説が必要なのだろうか。ちなみに、小豆島のそうめんは慶長3年(1598)に、大和の三輪から技術が伝えられたという。
 それよりやはり、ここは古くから良質の小麦と水に恵まれた土地だった、ということなのだろう。
 脊振山系の山麓で穫れる小麦、城原川の水量豊かな流れ──。こうした環境のもとかつて神埼の山里には、小麦粉を挽くための水車が至るところでギシギシと回転し、壮観な田園風景を作っていたのに違いない。冬の農閑期に家族でできる素麺作りは、農家の格好の副業だったのだ。
 時代が移り水車が姿を消したいまも、神埼そうめんはこの地域を代表する名産品だ。なにより佐賀県人にとって、茗荷を入れた汁にあの白い麺をつけて啜る喜びは、他の何ものにも代え難い。つまり、神埼そうめんのない佐賀の夏など、考えられないというわけだ。

 四丁目橋から枝ヶ里橋と、石造りの立派な橋を通り過ぎ、道は真光寺へと近付いて行く。二つの橋もそうだがこの道筋、舗装といい家々のたたずまいといい、実によく整備されている。神埼宿の町並みを大切にしたいという、町の人々の心遣いが細部まで行き届いているようで、歩いていても気持が良い。
 いよいよ真光寺本堂の屋根が大きくなり、通りを挟んでその左側には、浄光寺というこれまた立派な寺の門も現れた。
 塵ひとつ落ちていない清潔な道。まるで寺町のような辺りの雰囲気──。ちょっとした古都の、裏通りにでも迷い込んだような錯覚を覚える。

ちょっとした古都の裏通りといった雰囲気のある、真光寺の門前界隈。街道はやがて門の前を左に折れて行く。

本堂の大屋根といい見上げるような鐘楼といい、真光寺はかつての脇本陣にふさわしい見事な造り。懐かしいデザインの郵便ポストも、お似合いだ。

真光寺と浄光寺は、ともにかつて脇本陣を務めたという名刹だ。
 どちらも、見上げるような鐘楼を持つ壮麗な造りの寺で、かつては大名行列やオランダ商館員たちの、休息や宿泊の場として使用されたという。あまりの立派さに、ちょっと中に入ってみたい誘惑に駆られるが、今日はとりあえず止めとこう…。

 真光寺の門前をほぼ直角に左に曲がると、今度は北に向かうやはり一直線の通りが目の前に現れた。櫛田神社の鳥居の前へと続く櫛田通り商店街で、道幅はやや狭いが、やはりどことなく旧街道らしいにおいを漂わせている。ちなみに神埼の長崎街道には、まるで城下町を思わせるこうした鉤型の曲がり角が、5ヶ所もあるのだ。
 人影の少ない通りを、遠く小さな鳥居を目指して黙々と歩く。だが、真光寺に至るこれまでの整備された道に比べれば、ここはちょっと雑然として、寂れた印象を拭えない。
 この商店街、かつては二日町から七日町、四日町と続く、櫛田神社の門前を飾る繁華街だったという。残念ながらいまはその面影もないが、昭和45年頃までは、この通りに店を出すことが近隣の商売人の夢だったそうな。栄枯盛衰は世の習いというものの、何だか少し寂しい話だなあ…。
 “おばあちゃんの原宿”こと東京・巣鴨の地蔵通りみたいに、なんとか門前町らしさをアピールして、活気を取り戻してほしいものだ。
 

遠く小さな鳥居に向かって伸びた櫛田通り商店街。どこかに旧街道のにおいがする。

街道に面した、大正モダン建築の福成歯科医院。旧古賀銀行の建物で国登録有形文化財。入ってみようかな?

商店街の突き当たりに待っていたのは、櫛田神社と満開の桜。ここだけは、華やかな空気が辺りを包んでいた。

櫛田神社側から門前の通りを見る。かつてはこの道筋に本陣や旅籠などが並び、神埼宿の中心部としておおいに賑わったはずなのだが…。

社殿へと続く石の太鼓橋を渡る。桜咲く祭の日なのに、どこか人が少ない感じ。

本殿の裏に回ると、「神埼発祥の地 櫛山」の碑がひっそりと立っていた。
櫛田神社の鳥居をくぐると、パアッと境内の満開の桜が出迎えてくれた。
 参道には幟やぼんぼりが立ち、拝殿の横には焼鳥などの露店も並んでいる。立て看板を見ると、どうやら今日は春季大祭の日らしい。この見事な桜といい、ちょうど好い日に来たものだが、その割に人出がさほど多くもないのが、少し気になる…。

 ぶらぶらと歩いてみれば、櫛田神社はなかなかの大社だ。
 以下は、社伝の話。そのむかし景行天皇が当地を巡行した折、不幸が続き苦しむ人民のため神を祭り慰めたところ、その後は災厄がなくなった。そこで、神の幸を受ける地として「神幸(かむさき)の里」と名付けられ、それが「神埼」になったのだという──。
 景行天皇といえば第12代の天皇で、日本武尊の父にもあたる人物。神社の創建はそのときだというから、これはもう相当な古社なのだろう。
 神埼はその櫛田神社の門前を中心に発展した、中世からの古い町。江戸期に入り長崎街道が整備されるとともに、さらに宿場としての形を整えていったらしい。佐賀藩の御茶屋(本陣)や高札場、また一般の旅籠も神社の門前辺りに集中していたようで、当時そこは多くの人が行き交う目抜き通りだったのだろう。つまり、昔から神埼のヘソにあたるのが、この神社だということになる。
 神埼──やはり名の通り、神の幸を受けた縁起のいい町だったのだな。

これはかつての酒蔵か、それとも味噌蔵? 朽ちかけた建物にもそれなりの歴史があり、それなりの美しさが漂っている。

さあ、行くぞ! 「ローハイド」のフェイバー隊長よろしく心の中で叫び、午後2時頃、次の目的地・田手宿に向けてふたたび出発。男が旅人に戻るには、やはり掛け声が必要なのだ。
 櫛田神社の鳥居を出て左に進み、突き当たりの丁字路を左折すると、つぎの佐賀銀行の角を今度は右に──。そんな複雑な曲折を繰り返した長崎街道も、最後の角を曲がった後は、ほぼ真っすぐ東に進んで行く。円楽寺を過ぎ、南北に走る駅通りとの交差点を渡ると、両側の家並みは急に寂しいものになった。
 自販機で買ったペットボトルのお茶で喉を潤しながら、そのまましばらく歩く。徐々に家並みがまばらになり、それとともに足の裏の黄色ランプが点滅し始めた頃、まさに不意にといった感じで、道の左側にちょっとした小山が現れた。
 長崎街道ではただ一つ残る一里塚、「ひのはしら一里塚」だ。
 見上げると小山の頂きには、小さなお地蔵様がこちらを向いてチョコンと鎮座している。解説板によればこれはイボ地蔵で、「ひのはしら(火の柱)」とは赤い鳥居の意味らしい。寛文5年(1665)の記録には、すでにこの石仏のことが書いてあるというから、ずいぶん古くからここに祀られているようだ。しかし、この地蔵への信仰があったお陰で塚が消失を免れたとすれば、この国の自然や景観を守る上で、やはり神仏のパワーは偉大なりということになる。ありがとう、お地蔵さん。
 その顔を拝むため急な石段を登ると、目の前の古びた石仏の首には、カラフルな花模様の大きな前掛けが掛けてあった。

 一里塚を過ぎれば、あたりは緑したたる一面の麦畑。いい景色だ。やがて道は少しずつ北にコースを移して行き、田手川に架かる広円橋を渡る。
 橋の上に立ち止まり上流の方角を望むと、遠くに脊振山系の青い山並みが広がり、川の東岸のずっと先には、田手宿らしい集落の小さな家並みも見えている。いや、よく歩いたもんだ。

街道沿いに唯一残る「ひのはしら一里塚」。整備とはいえ、草木を剥がされ丸裸にされた姿は痛々しい。

塚の頂きに祀られたイボ地蔵。この石仏への信仰のお陰で、一里塚は消失を免れた?

静かに流れる田手川。遠く上流の方角に、脊振山系の山並みが広がっている。

さらに東へと続く長崎街道。国道34号の開通により衰退した田手宿だが、わずかにかつての宿場らしい景観が残っている。

「田手宿地区」の地名プレートを過ぎると、どこか古い集落らしい空気が漂う。

丘の上にある太神宮。歴史の古い神社で、小作りだが風格がある。

田手宿の、一軒の商家風民家には謎の注連飾りが。伊勢地方と関係があるのだろうか…?

橋を渡った街道はそのまま川沿いに北上し、国道34号の手前で緩やかに右にカーブ。神埼宿からはちょうど1時間ほどで、いよいよ田手宿の入口に差し掛かる。
 田手といえば、享禄3年(1530)の「田手畷の戦い」で知られる所だ。
 これは大内義隆の命を受けた杉興運の軍を、少弐資元の配下・龍造寺家兼の軍が破ったもので、このときの立役者が鍋島清久・清房父子。鍋島勢は、鬼面をつけ赤熊(しゃぐま)の毛を被って大内方に突入し、味方を勝利に導いたという。この功により鍋島氏が台頭、清房は龍造寺家兼の嫡男・家純の娘を娶ることとなり、二人の間に出来た子が後の佐賀藩祖、鍋島直茂となる──。

 「田手宿地区」と書かれたプレートを過ぎると、周囲にどことなく古い集落らしい雰囲気が漂い始めた。左手の丘の上に立派な神社が見えたので、階段を昇ってみる。
 その太神宮は、小作りだが堂々とした風格。拝殿に貼られた来るべき春期大祭の式次第には、「赤熊太鼓」の文字も。むろんこれは、田手畷の戦いの故事による芸能なのだろう。
 由緒書きによるとこの神社は、約千三百年前に杉野隼人なる人物が願い出ること33回、天智天皇が筑後に御幸された折りに、この地に天照大神を勧請して一宇を建立したのが始まりだという。
 境内の草取りをしていたご老人に挨拶をし、しばらく立ったまま歓談。聞くと杉野さんという方で、なんと杉野隼人から34代目にあたるご当主だというから驚いた。若い頃は伊勢の皇學館で学ばれたそうだが、そこで調べたところ、そのむかし杉野隼人が33回も願い出たという記録が実際に残っていたのだとか。何か気の遠くなるような話だが、いやあ日本の歴史はじつに奥が深い。

 このあと街道に戻り、狭い通りに並ぶ家並みにかつての田手宿の面影を探しながら、JR吉野ヶ里駅を目指して歩く。
 その途中の一軒。櫺子格子が美しい商家風民家の入口に、4月だというのに注連飾りが掛けてあるのを発見する。これは伊勢地方の風習と同じなのだが、何か関係があるのだろうか。ちょっと気になるなあ…。

[文と写真:城島敏明]
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