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●そのむかし「市は高橋、荷は牛津」と謡われたのが、長崎街道の高橋の町。商品の集積地として栄えたというが、現在は武雄市朝日町となっており、かつての町名も華やかな市の面影もいまはない。その代わりというわけでもなかろうが、「高橋」という名前の可愛らしい駅がJR佐世保線に残っていて、ちょっとだけ救われる。
その高橋駅に降りたのは、霞んだ空が妙に薄明るい初春のある日。ここから長崎街道を東に向かい、北方宿を抜けてその先にある北方駅まで、ひと駅間を歩こうというのが今日の計画だ。しかし花粉なのかこの無理な薄着のせいなのか、歩き始めたとたんクシャミの連発にはまいった。
まずは駅前の県道24号を北東に進む。
「高橋橋」という名前の橋を渡り、しばらくして妙輪寺の左脇の小径に入ると、一直線に伸びた道路に突き当たる。もうそこはすでに長崎街道。いつもながらここに立つと、ホッとした心地になるなんだよなあ。
右折した道をまっすぐ歩き、途中のコンビニでキャラメルとキャンディを購入。歩きながら甘いものをしゃぶるのは、エネルギーの補充になる上、気分もリラックス出来ていい。ついでに同店でトイレを借りて小用をすませ、さあこれでスッキリと準備万端整った。国道34号に合流した道を気持ちよく北上し、長崎自動車道の高架下を過ぎると、あとは北方宿を目指してひたすら歩くのみ。
それにしても車道を走る車の、なんと速く、なんと数の多いこと。殺人的とはこのことだ。みんなそんなに急いで、いったいどこに行くのかなあ…。 |
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なんとも可愛い高橋駅。1時間に1本ほど電車が停まる無人駅だが、トイレはない。
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長崎自動車道の高架下を通る。それにしても国道を行く車の数のおおいこと。
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佐賀県を通る長崎街道の北西の角にあたるのが北方宿。
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喧騒の国道34号を抜け、大崎八幡宮へ向かう長崎街道。まるで嘘のような静けさだ。
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北方宿の入口にある追分石。何と刻んであるかはもう分からない。
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●右にカーブする国道34号の喧騒に別れを告げ、旧街道の小道を前方の丘を目指して真進。たちまち時間の動きがスローになり、あたりは嘘のように静かな住宅街になる。やっぱり、こうでなくちゃ。
街道はやがて、こんもりと木々の繁った丘に突き当たり、左右へと分かれる。そこはもう北方宿の入口なのだ。右に曲がればそのまま佐賀方面へ、左は伊万里の方へと向かうらしい。手前の左角に、恵比寿様と並んで小さな追分石が、ブロック塀に囲まれて立っていたが、そこに何と刻んであるのかはすでに分からない。
この辺りの地名は「大崎」、すぐ目の前の丘には大崎八幡宮があるという。だが大崎とは、どこか岬を連想させる地名じゃないか。
ちなみに、東京の山手線にも大崎という駅があるが、かつては東京湾に突き出した岬だったのだとか。海退により岬は平野の中の丘になったわけだが、そういえばこの大崎も、どこか平野の中に突き出した岬に見えないこともない。あるいは白石平野にそのむかし、有明海の潮が流れ込んでいた時代、ひょっとしてここは波の打ち寄せる岬だったのかも知れないなあ…。
などと勝手なイメージを膨らませながら、大崎八幡宮の鳥居をくぐり、本殿への石段を登る。まあ、自由な想像は旅人の特権だ。いろんなイメージを膨らませた方が、街道歩きは楽しくなるものな。 |
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| 高台にある静かで落ち着いた大崎八幡宮の境内。拝殿への階段を上がった途端、警報が鳴りだしたのには驚いた。 |
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| 拝殿の格子天井には十二支らしい絵が描かれていた。どこか看板絵のような、ちょっとレトロで不思議な雰囲気が印象的。 |
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●樹木に囲まれた丘の上、小さな大崎八幡宮は静寂の中に佇んでいた。境内はまったくの無人。
建久5年(1195)創建という古社だが、ここには「炭坑絵馬」という、慶応の頃の炭坑の様子を描いた絵馬が、拝殿に奉納されているという。そういえば一帯は近年まで、杵島炭坑など多くの炭坑があった所だ。幕末期に街道を通ったシーボルトやオールコックも、佐賀藩の炭坑を見て行ったらしい。
なので、その貴重な絵馬を拝もうと拝殿に近付き、石の階段を昇る。そのとたんいきなり警報が鳴り響き、拝殿の中のライトがこちらを照らしたのには驚いた。何なんだ、俺は泥棒か? どうやらセンサーが仕掛けてあったらしいが、それにしても参拝者にこれはないよ。
警報はしばらく鳴り続けた後、やがて停止。が、別に警備員が駆け付けて来る様子もない。どうやらこれ、賽銭泥棒対策のようだ。ちょっと人騒がせだが、むろんこちらはその業界に関係ないので、知らん顔して拝殿の中を覗くことにする。
だが、格子戸の奥に炭坑絵馬はなかった。あるいは貴重な文化財を護るため、別の保管場所にでも移したのだろうか。
その代わりに目に付いたのが、天井いっぱいに描かれた十二支の絵。そこには犬や羊に蛇といった動物たちが、格子の一つひとつに、奉納者の名前と共に描かれていた。面白いのは、どうにも奇妙なその画風だ。
おそらく、拝殿が改築された大正時代にでも描かれたのだろう。
この由緒ある神社にお似合いかといわれれば、そうでもない。日本画とも洋画とも違う、どう見ても町の看板屋さんが描いたような庶民風──。だが、そんな動物たちが不思議なほどの存在感を発し、なんともレトロで懐かしい雰囲気を醸し出している。それが実にいいんだな。
だいいち十二支なのに、牛はホルスタインだし犬はシェパードだもの。これが大正モダンか、と思わずニヤリとさせられた。
絵馬の代わりの大発見に、おおいに満足。この天井絵も地元の歴史資料として、これから大事に保存して欲しいものだ。
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街道に面した大崎八幡宮の参道。桜はまだだが、菜の花は満開だ。
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ここがかつての北方宿辺りか。なんとも長閑なただの住宅街だが。
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街道の主要な建物脇などには、こうした陶製の案内板が設けられている。
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| 北方宿の本陣跡(現稗田家)。かつてここが宿場だったことを誇るような、堂々たる造りの古民家だ。伊能忠敬一行も宿泊したという。 |
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●大崎八幡を出て街道に戻り、また歩く。ペットボトルのお茶で喉を潤しながら、人も車も少ない通りをしばらく行くと、やがて北方宿の旧本陣だという稗田家の前に到着。白い漆喰壁が美しい堂々たる造りの民家で、文化9年(1812)には伊能忠敬一行も宿泊したのだとか。 もともと北方は、西の塚崎と東の小田との間(あい)の宿。宿屋は農家が兼業で営んでいたらしい。なので、格子のきれいな宿場らしい家並みなど、はなから望むべくもないが、それにしても集落にこの稗田家以外、宿場らしい建物がまるで残っていないのもちょっと寂しい話だ。花ぞむかしの香に匂いける、か…。
左はずっと丘陵地帯、右はどこまでも平坦な白石平野──。
それが北方を東に向かう長崎街道の、一般的な地形だ。平野を海に見立てれば、北方はちょうど波打ち際にあたる。だから頭の中で波の音を聞きながら歩くと、この変哲もない道もまた違ったものに見えてくる。
そう、イメージを膨らまそう。つまり、ここは“海辺の道”なのだ、と。
白石平野一帯には弥生時代まで、有明海の潮が及んでいたという。ならばこの北方(きたがた)に、「北潟」という字を当ててみると、また面白いのかも知れないな。おお、少し楽しくなってきたぞ。
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街道脇の民家には早咲きの桜が満開。花はピンク色だが何という品種だろう。
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変哲もない道も海辺の道だと思うと、また違ったものに見えてくる。
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| これも平野を見下ろす高台にある稲主神社。古くから稲作の神として、この地域の人々の信仰を集めてきたという。 |
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| 稲主神社から南に白石平野を望む。正面には平野の中に浮かぶ島のような、杵島山の峰々がうっすらと霞んでいた。 |
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木ノ元集落の入口にあった立派な石の祠。木ノ元神社跡だという。
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かつては茅葺き屋根が連なっていたという木ノ元の集落。来るのが遅すぎたか。
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ここが炭鉱の町だったことを偲ばせる遺構。炭車を通した軌道橋の橋脚か?
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●北方中学校前を通り過ぎ、街道をそのまま東進すると、やがて行く手に木々の繁った小山が見えてきた。近付くと道の左手に大きな石の鳥居があり、小山に向かって石段が登っている。ちょうどいいので休憩がてら、その古い神社を覗いて行くことにする。
石段の上にあったのは稲主神社。古くから稲作の神として、この地域の人々の信仰を集めてきたのだという。やはり境内に人影はないが、良かったのはそこからの眺望だ。
見下ろした視線の先には平野が広がり、さらにその向こうには、杵島山のなだらかな峰々がぼんやりと霞んでいる。
その優しげな姿はどこか女性的だが、ここは万葉の時代から歌垣が行われていた山だというから、何となく納得。きっと良い所なんだろうね。長崎街道を頻繁に旅人が行き交っていた江戸時代、この境内で一息入れた人々も、きっとあの山影を眺めてずいぶんホッとしたことだろう。
それにしても杵島山──有明海に浮かぶ島を連想させる、いい名前じゃないか。
街道は神社の正面から南に折れ、国道34号を突っ切るとまた東に方向を変える。これまで国道に平行して北側を進んでいた街道は、今度はその南側を行くことになる。
道が少し左にカーブした辺りに、木ノ元集落の古い家並みが数軒、屋根を連ねていた。ここはかつて茅葺きの家々が残っていたというが、残念ながら今ではそれも一軒のみ。来るのがちょっと遅すぎたようだ。やっぱり茅葺きは維持が大変なのだろうが、でも残して欲しかったなあ…。
蛇行した街道はふたたび国道の北側に戻り、武雄カントリークラブの前でまた東の方へと曲がって行く。このゴルフ場周辺はその昔、炭鉱のボタ山だったらしいが、入口から見た限りではまるでその面影はない。昭和30年代の佐世保線の列車の窓からは、きっと巨大な円錐形の姿が、いくつも見えたはずなのだが…。
しかし、ここが炭鉱の町だったことを示す証拠は、すぐに見付かった。
十三塚を過ぎた辺り。突然のように道の左側に出現したのは、古い煉瓦造りの建造物。橋脚らしい。かつてはここに橋が架かり、その上を石炭を積んだトロッコが行き来したのだろうか。ボロボロになって半分は蔦に覆われ、通りを見下ろすように佇む姿は、まるで幽霊のようでもある。
だがまあ、ある意味これは“現代の遺跡”でもあるのだな。この町の一つの時代を語る証言者として、この橋脚、案外これから存在価値が高まるのかも知れないぞ。
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| 追分観音の境内に佇む十三仏。ここで一休みした旅人は穏やかな顔を見て、きっと心を癒されたことだろう。 |
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永禄12年(1569)の銘があるという、追分観音の六地蔵塔。
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塩田道との追分。ここから塩田へ向かう道がかつては本道だった。
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北方駅の連絡橋から。左に白石平野が、右は緑鮮やかな丘陵地帯が連なる。
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●歩くこと約2時間、とうとう道はゴール間近の追分へと差し掛かった。ここから南に分かれるのは、塩田の方へ行く塩田道。宝永2年(1705)にいま歩いてきた塚崎道が整備されるまでは、この道が長崎街道の本道だったのだ。塩田川の氾濫という爆弾を抱えた塩田道に代わり、より安全な塚崎道が開かれたというわけ。
分かれ道を過ぎて少し歩いた辺りで、左側の崖の上にある追分観音に登る。といっても大した高さではないが。もともと明治期に鉄道工事に伴い道を移すまでは、さっきの追分はこの観音堂のすぐ下にあったのだという。
ぴったり扉の閉まった小さな観音堂。特に何も見るものはなかったが、すぐ脇に並んだ十三仏の穏やかな顔が、疲れた体を癒してくれた。やっときたなあ、ここまで。きっと往時の旅人も、同じ思いでこの石仏を拝んだのだろう。
今日のゴールは北方駅。休日のせいか窓口は閉まっており、小さな駅舎に人影はない。1時間に1本の上り電車まで、約10分の余裕で到着だ。われながら理想的なペース配分に、ちょっとだけ嬉しくなった。
で、ホームに出て電車を待つ間、時間つぶしに連絡橋に上がってみる。
どれどれと来し方を眺めれば、左には白石平野の田園が広がり、そこに杵島山がゆったりと青く浮かんでいる。右には緑鮮やかな丘陵地帯が西へと連なり、両者の間を分け入るように、JR佐世保線のレールが緩やかにカーブしていた。今日歩いてきた道は、まさにあの平野と丘陵との接する辺りだったのだな。
さて、弥生時代まで有明海の潮に浸っていたというこの平野。そのむかし北方宿の辺りでは、どのように波が打ち寄せ、どのような潮騒が聞こえていたのだろうか…。
[文と写真:城島敏明]
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