【その1】
肥前浜宿 酒蔵通り
【その2】
川の町、塩田
【その3】
佐賀城下を東へ
【その4】
牛津 赤煉瓦の町
【その5】
対馬藩領田代宿
【その6】
小田の分かれ道
【その7】
神幸の里、神埼
【その8】
波の音する北方
【その9】
武雄 湯煙と大砲
【その10】
大町うらうら行
【その11】
嘉瀬川を渡れば
街道ばゆく
その9.武雄 湯煙と大砲

九州新幹線が停車する予定の、JR佐世保線・武雄温泉駅。
 高架ホームも出来て、見違えるほど洒落た駅舎に変身していたが、建物の北側ではまだ工事が続いていた。すべてが完成しホームに新幹線の車両が滑り込むようになると、きっとこの駅はさらに多くの行楽客で華やぐのだろう。それほど「武雄温泉」の名前は、佐賀県下に鳴り響いている。
 そんな、準備オーライいつでもどうぞという感じに整備された駅南口とは反対の、どこかまだうら寂しい北口のゲートを出たのは、11月の晴れたある日のこと。初冬の柔らかな日差しが、染めたようなコバルト色の空から、燦々と地上に降り注いでいた。

 駅のすぐ前を走る県道330号を渡り、住宅地の中を北に伸びた一本の小径に入る。
 しばらく歩くとやがて目の前を左右に横切る、どこか懐かしい風情の小さな舗道が現れた。長崎街道だ。ここは東から来て長崎へ向かう旅人が、いよいよ塚崎(武雄)宿に入るというとば口辺り。小田や北方といった小さな宿場を経て、山裾の道に難儀して来た旅人たちも、名湯で知られる賑やかな宿場に入る嬉しさに、きっと胸をワクワクさせたことだろう。
 その気分を味わおうと街道を西に向かい歩き始めたとたん、目の前をゆっくりと横切った一匹の黒猫──。とんだ出迎えだが、まあ、これも何かの吉兆と考えることにしようか。

九州新幹線の開通に向け、着々と工事が進む武雄温泉駅の北側。

長崎街道を塚崎(武雄)宿に向けて歩き始めたとたん、目の前をゆっくりと横切る一匹の黒猫。ようこそ、というさっそくの出迎えかな?

立派な石の鳥居の奥には、諏訪神社の小さな建物がある。

初冬の暖かな日差しが、ガランと人影のない現代の街道を照らしていた。

通りの突き当たりは、城下町らしく鉤形に折れている。

緩やかにカーブした道を少し行くと、右側に立派な石造りの鳥居があり、その奥の小高い丘に小さな社が立っていた。諏訪神社の建物らしい。
 案内板によればここは八並といい、13世紀の終わりに後藤清明の次男・共明がこの地に領地を得、館を定めたときに祀ったのだという。つまり、分家した後藤共明の砦の跡。おお、いきなり来たか! ふいに当地の歴史の古さを突き付けられた格好だが、実はこの後藤一族こそ、武雄のクロニクルを紐解く上でなくてはならない存在なのだ。

 藤原氏の出で、古くから源氏に仕えてきたという後藤氏。
 そもそも武雄との関わりは、前九年の役(1051〜1062)で戦功のあった後藤章明が、塚崎荘の地頭となったのが始まりといわれている。章明の子・資茂のとき初めてこの地に下向し、その子・助明には黒髪山の大蛇退治の伝説があるそうな。そしてその子・宗明が源平の合戦で源氏方に付いた功名で、以来、鎌倉幕府の御家人として後藤氏はこの地に大きく根を伸ばして行く…。
 中央からの天下りといい名門の出といい、後藤氏はなんだか小城の千葉氏とよく似ている。しかもその後、大名として大成しなかった所もまたよく似ているんだなあ。
 戦国期には杵島郡内の有力豪族として武威を振るった後藤氏だったが、貴明のときに台頭したのがあの龍造寺隆信。
 ついにはその支配下に組み込まれ、とうとう龍造寺から養子・家信をあてがわれる羽目に。つまり吸収合併みたいなものか。だがその家信も本家・龍造寺家の没落後は、跡を継いだ鍋島氏に臣従。やがて初代佐賀藩主・鍋島勝茂から鍋島姓を与えられ、以後、後藤氏は武雄鍋島家として藩政時代を生き抜き、明治維新を迎える──。
 思えば長い物語だが、この武雄という地は昔からずっと、そうした古い歴史を持つ一族のホームグラウンドだったわけだ。

 ガランとして人影のない街道を、初冬の暖かな日を浴びながらのんびり歩くうち、道はやがて鉤形に折れた通りに入る。城下町特有の、敵の侵入をくい止める戦略道路だ。いよいよここを曲がり旅人は、賑やかな宮野町の通りへと入って行く。
石畳の敷かれた宮野町の長崎街道。賑やかな通りを想像していたのだが、まるで人がいないのには拍子抜けだ。

通りにポツンと残った、漆喰壁に千本格子の商家らしい建物。時代を感じさせるこうした建物は、もうここにはあまり見られない。

肩透かし──とはこのことか。鉤形の道を曲がって、ふいに目の前に洗われた一直線の通りは、まるで白昼の商店街とも思えぬ人影の無さ。え、本当にここがかつて多くの旅人が行き来した、塚崎宿の宮野町だろうか…?

 温泉町の華やかさを期待していた分、ちょっと裏切られた気もするが、しかしよく見るとこの通りは紛れもなく長崎街道らしさを、そこここに匂わせていた。
 まず道の狭さがいい。おそらく往時と変わらない二間の道幅は、両側に並んだ商店をつい交互に覗きたくなるほど、ヒューマンスケールで歩き易い。つまり人間の暖かみがある。さらに路面はきれいに石畳が敷き詰められ、ところどころには、街道の各宿場の様子を描いた陶板も埋め込まれている。なかなか雰囲気があるのだ。
 かつてここは、多くの寺々が肩を並べたという寺町。いまでも通りからはいくつかの寺の、巨大な本堂の屋根を望むことが出来る。長崎街道がこの塚崎を通るようになったのは、18世紀初めの享保年間のことだが、それ以後はこの通りも、宿場らしく賑やかな繁華街へと様変わりしていったのだろう。わずかに残る入母屋造りの古い商家が、その頃の面影を微かに残しているようにも見える──。
 などと往時の華やかさを想像しながら、無人の通りを歩くのも、また“時間旅行”の楽しみの一つなのだ。
石畳の通りに埋め込まれた、各宿場の様子を描いた陶板。

この木造商家も「モリソン万年筆」の看板も、みごとに昭和の香りを漂わせている。

温泉通りの正面に立つ楼門は、辰野金吾設計によるもので武雄温泉のシンボル。このすぐ左側に「第一源泉」の櫓が立っている。

楼門の扁額に書かれた「蓬莱泉」の文字は、中林梧竹の筆。

上は「元湯」の入口で、下が「新館」の入口。新館の設計も辰野博士によるもの。

宮野町通りから温泉通りに折れる角は、札の辻というかつての高札場。
奈良時代初期編纂の、肥前風土記にも記述があるという塚崎のいで湯。温泉好きの日本人はそんな山中の秘湯を、たちまち有名保養地にしてしまう。
 神功皇后に始まり伊達政宗や宮本武蔵、長崎街道の宿場になってからは、シーボルトや伊能忠敬に吉田松陰などなど。ここを訪れた有名人はまさに多士済々だ。だが名にしおう肥前塚崎の湯も、明治30年(1897)玄関口の駅名が「武雄」に改称されると、「武雄温泉」の名前が一般的になる──。

 宮野町通りの突き当たりを右に折れ、そのまま温泉通りを、正面に見える竜宮城のような楼門を目指して歩く。その門こそ現在の武雄温泉のシンボルであり、温泉場への入口なのだ。
 それにしても何と久しぶり。思えば、小学校の修学旅行以来の再会じゃないか。
 白いゲートを彩る鮮やかな朱色の柱や窓、そしてお城のようなグンと反り返った屋根。あの頃、少年の目に映ったこの門は、まさに絵本で見た竜宮城そのままだった。それが今さら旅人の真似をして、ノコノコ歩いて訪れる日が来ようとはね──。
 目指す楼門が近づき昔と変わらぬ姿が大きくなると、まるで乙姫様の元に帰ってきた、遅すぎた浦島太郎のような気分になった。
 辰野金吾博士の設計による、この楼門が完成したのは大正4年(1914)。もともと藩政時代から門前の辺りは、多くの旅籠や茶屋が軒を並べる、この宿場きっての盛り場だったらしい。いまもそこには豪華な温泉旅館が競うように建ち並んでいるが、旅籠の風情を残した古風な建物がどこにもないのがちと残念だ。

 感慨を覚えながら楼門をくぐる。内部はスペースのある広場になっており、それを取り囲むように複数の浴場施設が立っている。温泉客の姿もここにはポツポツと見え、何だかちょっと安心した。
 かつてはここに塚崎宿の本陣があり、それと並んで湯屋があったのだという。湯屋は佐賀藩営で、管理するのは武雄領主。湯壺は大名から庶民まで身分ごとに区別されており、庶民や旅人は毎回湯賃を払いこれを利用したそうだ。
 藩主の鍋島家の殿様にはまた、現存する専用の浴室が別に設けられていた。裸になっても身分に差があるのが、やはりこの時代なのだな。ただし好奇心の強いシーボルトは、ちゃっかり頼み込んで藩主用の湯船に入っている。
 現在のここは大衆浴場。入湯料さえ払えば、誰でも自由に湯に浸ることが出来る。少し割高だが、「殿様湯」や「家老湯」と名付けられた貸切湯では、一時間だけリッチな気分も味わえるらしい。良い時代になったものだ。
 ひと風呂浴びたいところだが、残念ながら今回は時間がない。なので、外からの見物だけで我慢だ。ちなみに浴場の入口には、「刺青を入れた方は入浴をお断りします」という注意書きが貼ってあった。
 

山腹にある天満宮から武雄の市街を見渡す。すぐ眼下を長崎街道が横切り、その先にはJR佐世保線の高架レールが平行して走っている。

湯の香に心を残しながら、楼門を出てふたたび歩き出す。
 高札場のあった札の辻を過ぎて最初の角を右に折れ、本日二度目の鉤形道を曲がると、ふいに西に向かって直進する街道が目の前に開けた。まさにズドンとストレート。商店の多かった宮野町に比べ、ここは閑静な住宅町という感じか。

 少し歩いた右手に寺があり、石の門には「牛鼻山善念寺」と刻まれている。案内板を読むとこの辺りは新町という町名だが、かつては「牛の鼻町」と呼ばれていたらしい。で、その由来が面白い。
 ときは平安時代、領主・後藤助明の依頼により有田の白川に出没する大蛇を退治したのが、かの豪傑・鎮西八郎為朝。その鱗を牛の背に積み太宰府に運ぶ途中、牛は町の入口辺りで鼻をついて動かなくなった。そこでここを牛の鼻町と呼ぶようになったというのだが…。
 不思議なことにこの話、同じ長崎街道の牛津の地名の由来ともよく似ている。当地の乙宮神社の由緒書によれば、やはり鎮西八郎の退治した大蛇の鱗三枚を牛の背に積んで運ぶ途中、重さのあまり牛が急死。その死骸を葬った場所が「牛津」になった、という伝説があるらしい。
 どちら本家か、はたまた元祖か。奇妙なアナロジーだが、たぶんこういう話は探せば各地にあるのだろう。いや面白い。
鉤形の道を折れると、街道は一気に西に向かってズドンと直進する。

「牛の鼻町」の由来を書いた案内板が立つ、牛鼻山善念寺。

日本で初めて種痘の接種をしたという蘭方医・中村涼庵の旧宅。涼庵は武雄領主・鍋島茂義の侍医だった人物だ。

初冬の日差しの中に輝く、旧田代酒造の白い壁と格子。かつては街道のこの辺りに、酒の香りが漂ったのだろうか…?

青空の中に浮かぶ白い漆喰壁の美しさは、街道を歩く者の目を慰めてくれる。

堂々たる西福寺の山門。ロマネスク風アーチに竜宮城のような屋根がよく似合う。

洒落たデザインの武雄市図書館・歴史資料館。歩いたなあ。

高島秋帆から鍋島茂義に贈られたモルチール砲は、武雄鍋島邸内の土中から発見された。

新町通りをさらに西へ進むと、辺りの家並みには徐々に往時の長崎街道らしい匂いが漂い始める。

 目を引いたのが「中村涼庵旧宅」という案内板のある、古風な板塀の邸宅だ。
 中村涼庵は、武雄領主・鍋島茂義の侍医だった蘭方医。日本初の種痘に成功したのは佐賀藩医・楢林宗建だが、実はその12年前の天保8年(1837)涼庵が長崎で入手した牛痘を用い、領主・茂義の子茂昌に接種したのだという説がある。つまりこの人、隠れた種痘の先駆け的存在なのだな。ほお──。
 感心しながら斜向かいに目をやると、今度はそこに白い漆喰壁と格子が美しい見事な商家が立っている。
 はてこの建物、どこかで見たような…。そのはずで、ここは2007年放送のTVドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」の中で、主人公の少年が野球のスパイクを買いに来たスポーツ用品店。実際はかつて田代酒造という、造り酒屋だった貴重な建物らしい。武雄はこのドラマのため、他にも多くの素朴で風情あるロケ地を提供している。
 そんな旧田代酒造や隣に並ぶ「御厨印刷所」の前を通り過ぎると、すぐ背後から懐かしい時代の影が呼ぶような気がした。
 街道歩きの終点として入ったのは、西福寺という浄土宗の寺。通りから少し奥まったところに立派な本堂があるが、面白いのはこの寺の山門だ。レンガ造りのロマネスク風アーチの上に、やはり竜宮城のような赤い色の楼閣が、あたりを見下ろすように建っている。武雄温泉の楼門ほどではないが、これはこれで堂々としていて実に見応え十分。
 やはりこの町には、こうした派手やかでどこか異国風のデザインが、よく似合うようだ。
 
 帰りの電車までやや時間が余ったので、ついでに駅の反対側の歴史資料館まで足を伸ばす。武雄28代領主の鍋島茂義に興味があったのだが、むろん28代とは塚崎荘の地頭・後藤章明に始まる。江戸時代の武雄は2万1千石余の佐賀藩の自治領で、茂義は武雄鍋島家の幕末の名君として、地元ではよく知られる人物らしい。
 市の図書館が同居するモダンな建物、その一角の楕円形をした空間に入る。
 「蘭学館」と呼ばれるこの資料館のいちばん奥に、見たかった展示物は並んでいた。大砲だ。「モルチール砲」「ボンベン野戦砲」に「ナポレオン式四斤野砲」、おお「アームストロング砲」もあるぞ!
 どれも今にも火を噴きそうに、砲身を黒光りさせているが、中でもモルチール砲(臼砲)はここ武雄で出土した、日本で初鋳造の西洋式青銅砲というから驚きだ。
 幕末の佐賀は藩主・鍋島閑叟の号令のもと、鉄製大砲を製造する日本随一の科学先進藩──。だが、じつはそれより早くオランダ式大砲の製造を手掛けたのが、武雄領主の鍋島茂義だったのだ。
 蘭学を好んだ茂義は、長崎の高島秋帆から西洋式砲術の他、その製造技術をも家来に学ばせていた。出土したモルチールは、天保6年(1835)茂義が秋帆から贈られたものらしい。
 後に、佐賀藩の砲術師範役に任じられた茂義。種痘もそうだが、時代の先を行く開明的人物だったのだろう。ちなみに、この人の夫人は閑叟さんの姉。
 展示されたモルチール砲はおそらく、領主・茂義の御前で秋帆により試射され、轟音をズドンとあたりに響かせたことだろう。それにしても武雄の蘭学、恐るべしだ。かつてここには、長崎からの風が強く吹いていたという証が、目の前の大砲ということになる。

[文と写真:城島敏明]
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