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中林梧竹の書と生
江藤新平、大隈重信、副島種臣など、明治維新の功労者を輩出したことで知られる佐賀藩。その支藩であった旧小城藩もこの時期、藩校・興譲館の英才教育の成果として、多士済々の人物を世に出しています。大蔵大臣・文部大臣・衆議院議長などを歴任した松田正久、司法大臣・宮内大臣を務めた波多野敬直、日本の電気事業界に多くの功績を残した工学博士の中野初子、などなど。
 中でも「明治の三筆」の一人と称えられ、わが国の近代書道史に大きな足跡を残した、書家・中林梧竹の名前は外すことが出来ません。上は老人から下は子供まで、いまも小城の人々に親しみを込めて“梧竹さん”と呼ばれる中林梧竹──。その偉大な業績と、奔放かつ一途に生きた足跡ご紹介します。


中林梧竹略年譜












年 号 数え年 事 項
1827(文政10) 1 4月19日、肥前国小城町に小城藩士・中林経緯の長男として生まれる。名は彦四郎隆経。幼少より書に天賦の才能を発揮し、神童と称される
1836(天保7) 10 藩主・鍋島直亮に認められ、奨学のため毎年米百俵を給される
江戸に上がるまで儒学を草場佩川に、書を水町空斎に学ぶ
1841(天保12) 15 藩校・興譲館に入学する
1845(弘化2) 19 藩命により江戸に遊学し、山内香雪の門に入る。また市川米庵に学ぶ
1856(安政3) 30 興譲館の指南役となる
1860(万延1) 34 長男・経雅が誕生
1867(慶応3) 41 この頃から長崎に出向し、清国の商人・林雲逵に書法を問う
1871(明治4) 45 廃藩置県により小城藩は小城県となる。この頃から一切の役職を辞し、書に専念する
1875(明治8) 49 桜岡公園(現小城公園)の建設に尽力し、自らの筆による「桜岡公園」の碑を建てる
1878(明治11) 52 長崎の清国領事館の理事官・余元眉と出会い、書の指導を受ける。六朝書の研鑽を進める
1882(明治15) 56 余元眉の帰国に伴って清国に渡航。潘存に師事して書法の奥義を学び、長鋒筆による立ち書きを会得する
1884(明治17) 58 清国から帰朝。副島種臣(蒼海)松田正久波多野敬直らの紹介により、銀座の伊勢幸洋服店・青木竹子方に寓居する。以後、約30年に渡りここに居住
1885(明治18) 59 明治天皇の御前で揮毫する
1891(明治24) 65 副島種臣の勧めにより、「十七帖」の臨書を明治天皇に献上。羽二重の御衣を下賜される。
1896(明治29) 70 銀座・伊勢幸より小城に帰る
1897(明治30) 71 清国漫遊に渡航し、帰国した後ふたたび伊勢幸に住む
1898(明治31) 72 富士山頂に登り「鎮国之山」の銅碑を建てる
1902(明治35) 76 長年の研鑽の末、連綿草書体を完成させる
1904(明治37) 78 東京芝、薬王寺境内の山内香雪の墓に面して、寿塔(生前建てる墓)をつくる
1906(明治39) 80 朝鮮に渡り韓国皇帝に謁見する。帰国後、小城に帰り、観音堂の建設を発願する
この頃、長鋒より中〜短鋒に移行
1907(明治40) 81 皇后陛下より観音堂に宝帖を下賜される。また、宮中女官12名より、和歌帖「三日月帖」を贈られる
この頃、「海外飛香」を揮毫する
1908(明治41) 82 小城の三日月村に観音堂、梧竹村荘が完成し、帰郷する
1909(明治42) 83 皇后陛下より香筥を下賜される。7月に北海道に遊び、伊藤博文らと交友
1912(明治45) 86 上海の呉吟軒に依頼して超短鋒を作らせる。
10月に銀座の理髪店にて脳卒中を発して倒れ、左半身不随となる。伊勢幸で療養
1913(大正2) 87 5月に三日月村に帰る。武雄、嬉野温泉で療養に努めるが、8月4日午前2時に梧竹村荘で逝去。三日月村長栄寺に葬られる。法名は「梧竹堂鳳栖五雲居士」
1914(大正3) 9月に梧竹退筆塚が建立される
写真提供:中林梧竹記念館
[同館のウェブサイトでは、梧竹の代表的な作品が公開されています]