トップページへ 小城の歴史ものがたり 小京都小城の由来 中林梧竹の書と生 関連リンク集
小京都小城の由来
全国には小京都と呼ばれる市や町が数多くあります。しかし、はたして小京都と呼ばれるためには、どんな条件が必要なのでしょう。昭和60年に、京都市と全国の小京都が観光振興を目的として発足させた「全国京都会議」によれば、この組織への加盟条件として以下の三つの基準のうち、どれか一つ以上を満たすことが必要とされています。
[1.京都に似た自然環境や町並みがある][2.京都と歴史的なつながりがある][3.伝統的な産業と芸能がある]
 現在までにこの条件を満たし、「全国京都会議」に登録しているのは、北は北海道の松前町から南は鹿児島県の知覧町まで、合計54の市町。むろん“九州の小京都”小城も、その一つに名を連ねています。そればかりか、小城は三つの基準のすべてを満たしている、“九州の小京都”の名に相応しい町なのです。では、小城のどんなところが“小京都”なのか、以下にその由来をご紹介します。

1.京都をモデルとして造られた町
かつて祇園社だった現須賀神社
下総の豪族・千葉常胤が、平家追討の軍功により源頼朝から肥前国小城郡晴気荘の地頭職を任ぜられたのが、建久2年(1191)のことでした。それから数代の後、元寇との戦いのため千葉宗胤が九州に下向し、小城に居住。その子・千葉胤貞も14世紀の初め頃、祇園川を見下ろす山上に居城(千葉城)を構え、そこに京都の祇園社(現八坂神社)から分祀勧請した、小城祇園社(現須賀神社)を建立します。また、北には千葉氏の守護神である妙見社を配しました。こうして胤貞により、京の都に似せた町造りがなされたのが、小城の町の始まりといわれています。
 千葉氏による小城の町はその後おおいに栄え、15世紀の半ば頃には全盛期を迎えました。その頃に朝鮮で書かれた「海東諸国記」によれば、「千葉殿」と呼ばれる千葉元胤が毎年一艘の歳遣船を出したことが記されており、同国とさかんに交易を行っていたことが推測されます。またわが国の歴史書にも、元胤が小城において犬追物を興行し、都から観世太夫を呼んで猿楽を催したことなどが書かれています。これには、貴賎老若を問わず国中の多くの人が集まったといいますから、その頃の隆盛ぶりが偲ばれます。
2.町を見守る後西院の歌碑
戦国時代に灰燼に帰した小城を再興したのは、幕藩体制の元で新しく藩主となった鍋島氏でした。初代藩主・鍋島元茂は新たに、祇園社の前から南北に上町・中町・下町を造ります。また鯖岡という丘に桜の木を植え、茶屋を設けました。この鯖岡を桜岡とあらため、桜の木を増植したのが二代藩主・鍋島直能でした。直能はこの地に屋敷を造り、自楽園という名の庭園を設けて、桜岡を中心とした城下町・小城の基礎を築きました。
 直能は和歌の才能にも恵まれた人で、「夫木類句和歌集」を編纂し、延宝8年(1680)に後水尾天皇に献上しています。歌道の師は飛鳥井大納言雅章でした。直能と和歌を語る上で最も有名なエピソードが、延宝3年(1675)に後西院(後西天皇)や公卿18人から贈られた岡花の御詠歌です。これらは桜岡の桜にちなみ詠まれた和歌で、このときの後西院の御製は「さく花に まじる岡邊の 松の葉は いつとなきしも 色を添えつつ」というものでした。
 明治8年、公園法により桜岡公園(現小城公園)が誕生したとき、この御製は石碑に刻まれ、公園最頂部に設置されました。いまでもこの歌碑は、桜に包まれた丘の上から、静かに小城の家並みを見守っています。
宮中との文化交流のシンボル
3.七百年近い伝統を誇る祇園祭
子供たちの声が勇ましい下町の山挽
毎年七月下旬に、上町・中町・下町を中心に開催されるのが、須賀神社の祇園祭です。須賀神社はもともと小城祇園社が、明治期の廃仏毀釈を経て神社になったもの。同社がいまでも“祇園さん”と呼ばれるのは、そのためです。
 この祇園祭の歴史はたいそう古く、祇園社を京都から勧請した千葉胤貞の時代(14世紀初め)に始まったといわれています。史料によれば、当時の祭は毎年六月十五日(陰暦)に行われ、山挽の神事には多くの見物人が集まったと記されています。また、この頃の山挽には軍事訓練の意味合いもあったようで、胤貞みずから陣頭に立ち、太鼓を打って挽き手の進退を指揮したとのことです。
 藩政時代になってもこの祭は小城藩によって引き継がれ、郡内から集められた農民が山挽の人夫として参加しました。この祭は疫病除けの神である祇園信仰と相まって、近郷の老若男女によりおおいに賑わい、「見事見るには博多の祇園、人間見るには小城の祇園」といわれたほどでした。また、藩主やその家族がお忍びで、山挽を見物に来ることもたびたびあったのだとか。いまに続く祇園祭は、小城の長い歴史を物語る輝かしい文化財なのです。