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羊の羮(あつもの)と書いて羊羹。元の意味は文字通り、ヒツジのスープだったのだが…。
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◆肉食はタブーだったので?
「羊羹」という字を二つに分けると、「羊(ひつじ)」と「羹(あつもの)」になります。「羹」とは肉や魚を入れたスープの意味なので、これでは羊肉を入れたお吸い物ということになってしまいますね。甘い和菓子の代表である羊羹が、ヒツジのスープとはこれいかに? 小城羊羹の歴史をたどる旅は、まずこの謎を解き明かすところからスタートしなければなりません。
そもそも羊羹の起源は文字通り、古代中国で食されていた羊肉入りの汁物でした。かの国の歴史書には、羊羹がたいへんな御馳走だったことが記されています。
これが平安時代に遣唐使によりわが国に伝えられたものの、仏教国の日本では肉食はタブー。そこで考え出されたのが、見立て料理でした。肉の代わりに小豆や小麦、葛などの粉を練って蒸し、汁の中に浮かべたものが、当時の宮廷や上流階級の人々の間でもてはやされたのだとか。日本に於ける羊羹のはじまりは、代用品の肉を入れたスープだったというわけです。 |
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羊肉の代用品として、わが国で用いられたのが小豆。原産地は中国だが、日本人には特に好まれる豆である。
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◆蒸し羊羹の誕生
この食べ物が今日のような羊羹の姿に近づいたのは、鎌倉・室町時代に普及した茶道の点心として出されるようになってから。
点心とは食事代わりの間食のことで、当時の点心には羊羹のほかに麺類や饅頭、餅などがありました。汁の具だった小豆の蒸し物もこうして汁がなくなり、お茶菓子として重宝されるようになったのです。これが「蒸し羊羹」のルーツ。蒸し物だけに日持ちはしないものの、モチモチとした食感は独特の味わいで、いまでも「でっち羊羹」や「栗蒸し羊羹」などとして各地で受け継がれています。
蒸し羊羹が当時の人々に人気を得た背景には、それまでの甘葛(あまずら)に代わる甘味料として、砂糖が徐々に使われるようになったという要因があります。もともとわが国では貴重品だった砂糖ですが、戦国時代末期になると南蛮貿易によりカステラや金平糖などと共に輸入されるようになり、これらの砂糖や菓子は高価な贈答品として用いられました。江戸時代に入っても、長崎の出島を窓口に砂糖の輸入量は飛躍的に増加。やがては琉球や薩摩の製糖技術が全国に伝播して、国内各地で砂糖が生産されるようになりました。 |
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型箱から取り出し、包丁で切り分ける。小城羊羹の伝統技法は、今も生きている。[写真提供:小城市立歴史資料館]
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◆寒天・砂糖・小豆が合体
こうした時代背景の上に生まれたのが、それまでの蒸し羊羹に代わる「煉り羊羹」。弘化3年(1846)に山東京山(兄は京伝)が著した「蜘蛛の糸巻」という本によれば、寛政(1789〜1801)の初めに江戸日本橋で喜太郎という人物が、初めて煉り羊羹を作って売ったとあります。これは、寒天と砂糖を煮て溶かしたものに小豆粉を入れて煉り合わせ、木箱に流し入れて固めたものでした。
蒸し羊羹との大きな違いは、寒天を使用したこと。冷やすとゼリー状に固まる寒天は見た目が美しい上、舌に乗せるとほどよく溶けるのが特徴。また、砂糖の防腐効果は煉り羊羹に日持ちの良さをもたらしました。この寒天・砂糖・小豆の取り合わせが羊羹に新しい命を吹き込み、以後、庶民の菓子として煉り羊羹が蒸し羊羹に代わり、主流となって今日に続きます。
ちなみに、嘉永6年(1853)に出た「守貞漫稿」という江戸時代の生活風俗誌によれば、羊羹を一棹や二棹などと棹(さお)の単位で呼ぶのは、流し固める型箱が昔から舟と呼ばれたためで、一舟を十二棹に切り分けたそうです。これは舟に対して棹が付き物ということから来たようですが、さすが江戸の職人らしい洒落た言葉の遊びですね。 |
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