日本一の羊羹のまち・小城 小城羊羹の歴史
羊羹店巡りロードマップ
小城羊羹の特色
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1.はじまりは羊のスープ 2.シュガーロードと“菓子王国”佐賀
3.小城羊羹の先駆者、森永惣吉 4.商標になった「小城羊羹」
5.“日本一の羊羹の町”ここにあり!
昭和27年3月に小城羊羹協同組合が設立された。[写真提供:小城羊羹協同組合]

敗戦からの再出発
 
昭和に入ると、小城羊羹は一大地場産業に成長します。日中戦争から太平洋戦争にかけては、軍の甘味品としてさかんに戦地に送られ、兵士たちの疲れを癒しました。
 しかし、戦局はしだいに悪化。国内では徐々に砂糖や小豆といった原料が入手難となり、厳しい物資統制のもと、小城でも多くの羊羹製造業者がやむなく店を閉じました。全国で戦時中を通して羊羹を作り続けたのは、ともに海軍御用達だった東京の虎屋と小城の村岡本店(現村岡総本舗)だけだった、といわれています。
 そして、終戦──。日本は焼け跡からの再出発を余儀なくされます。
 昭和26年にようやく砂糖の統制が解除されると、甘味に飢えていた大衆は争うようにこれを求めました。小城の羊羹製造もようやく本格的な復活の時期を迎え、作れば売れるという時代が始まります。戦地から引き揚げてきた元兵士たちの中には、郷愁とともにその味を懐かしむ者も多かったとのこと。甘味とは死線を越えた人間をも惹き付ける、まさに甘美な魅力を持っていたわけですね。
小城羊羹の様々なパッケージ。デザインの刷新や新製品開発が伝統産業を甦らせた。[写真提供:小城羊羹協同組合]

販路の拡大と試練
 
戦後の復興にともなって小城羊羹の需要は増大し、製造業者たちも自由競争の時代を迎えます。その販売の主役を担っていたのが、“かつぎ屋”と呼ばれる人々。昭和30〜40年代にかけて、大きな風呂敷に包んだ羊羹を背負ったかつぎ屋さんたちが、小城駅から汽車に乗り得意先に向けて続々と出掛けて行きました。大半は女性で、外地からの引揚げ者が多かったとのことですが、こうしたかつぎ屋さんによる販路の開拓が、今日の小城羊羹の土台を築くうえで大きな力になりました。
 やがて、日本経済の成長とともに羊羹の主な輸送手段も自動車へと変わり、それにともない販路も関西や関東まで伸びて、市場は大きく広がって行きました。昭和50年頃までの小城羊羹の総売上げは、約15億円にも達しました。
 しかし、社会が豊かになるにつれて徐々に、食生活の洋風化や多様化が進み、嗜好の変化による「甘味離れ」が日本中を覆います。甘さが売り物の小城羊羹にも、試練のときが訪れたのです。
 こうして到来した“飽食の時代”にあって、小城の羊羹業界は一体となって改革に臨みました。昭和55年に始まった「産業デザイン推進事業」では、菓子業界では初めて通産省の指定を受け、国・県・町の助成と指導のもと、包装デザインの刷新や新製品の開発に着手。将来の方向性を模索しながら、人材育成や異業種交流などにも、積極的に取り組んで行きました。
静かな城下町のいたる所で、先人の熱意と技術を受け継いだ小城羊羹が、今日も作られている。

受け継がれる小城羊羹
 
現在、小城市内には20軒あまりの羊羹店が営業を続けており、“日本一の羊羹の町”の暖簾を立派に守っています。伝統の味を守りながらも業界の革新に懸けた人々の熱意が、小城羊羹を土俵際でグッと踏ん張らせたのです。
 近年では健康志向のブームを受け、洋菓子に比べれば低カロリーな、和菓子を見直す気運も高まってきました。中でも羊羹は、脳のエネルギー源として最も優れた砂糖と、日本古来の健康食品である小豆・寒天から作られています。考えてみればこれはあんがい、現代人にとり理想的な食品なのかも知れませんね。
 小城羊羹が生まれて、すでに百年以上──。先人たちの播いた種は、いまもこの小さな町にしっかりと根付き、立派な花を咲かせています。そして、人々に愛されています。日本人がひとときの憩いと甘味への郷愁を忘れない限り、小城羊羹は佐賀県が誇る菓子文化の傑作として、きっとこれからも末永く受け継がれて行くことでしょう。(おわり)
[資料提供:小城羊羹協同組合、村岡総本舗羊羹資料館、小城市立歴史資料館]